1804-17-1244-4/20メルマガブログ転送無駄必要贅沢

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働く人のためのケインズ革命

(見出し)

②無駄と必要の境界線

(私のコメント)

(要約)
1.道路、港湾、堤防、橋トンネル、学校など政府が行う事業である、公共投資はお金の入らない公共施設の為いかなる客観的な評価も困難です。
例えば、新しい道路を作ったどして、従来の道路の交通量は減るし、利便性の向上はあるが、それらを数値化することは困難です。
2.この為、マスゴミなどは公共投資を無駄だと散々叩いて減らすようにする。
だが、災害緊急時に使う為の道路を作ると普段は無駄で、贅沢だが日本のように災害が多い国には必須のものでもある。
この贅沢が国民の豊かさになる。
3.贅沢という概念は曖昧だ。
贅沢とは時代や地域によって相対的に評価される。
高級車などのように実用を越えた無駄なものを贅沢というが、だからと言ってそれらは使う人から見れば必要なものだ。
すなわち、自分たちには必要なものでも、自分と共感を持たない他人にとっては無駄でしかない。
(無駄を無くした生活をしたいなら刑務所の生活が良いのだろうが、その生活を皆がやったとして無駄を省いたから、と喜ぶだろうか。)
例えば、奴隷は支配者の主人によって医者にかかるのも無駄と断定される。
これは今の日本でも起きていることで、グローバリズムの思想からすると、日本人に対する社会福祉公共投資は無駄なことだ。
4.民間企業は収支が黒字になれば、無駄なことでないと判断できるが、普遍的な行政サービスは収支で測るものでない。
大概の行政サービスは赤字だから、そういう基準なら全部無駄ということになる。
(警察も消防も学校も皆無駄で市や町の行政サービスから削減して、それらをニーズ(必要)に合わせて有料にしたのがアメリカのゲート社会だ)
5.投資家階級(彼らの走狗であるマスゴミを含む)が好んで使う「贅沢」や「無駄」という言葉は、国民に対する「非共感」のサインです。
(投資家が利益を最大にしたければ、設備投資や人件費を徹底的に削り、生産されたものは独占するのが一番よい)
6.そもそも、先進国においては国家全体の生産の90%は贅沢品とか娯楽品で無駄なものです。
それらの生産力を総合した頂点に国家の安全保障すなわち、軍事がある。
国家国民を守る安全保障は絶対に必要で、必要だから無駄ではない。
物の性質に焦点を合わせても、贅沢品娯楽品と生存必需品の境界は簡単に分けられない。
これらの必需品から贅沢品までのあらゆるものを国民が手に入れることで、豊かな生活を生み出して行く。
豊かな生活が経済成長を促し、有効性の高い国防力を獲得してゆく。
7.無駄と必要の境界線はいまのところ存在しない。
境界線を決めなければならない、と意気込む必要もない。
その都度、政治的に決めるべきものだ。
政治だから天下りや利権はどうしても絡んでくるが、それらはチェックして細かく排除するしかない。
利権屋が暗躍してもそれらの奸智や怠惰は人間の本質であり、どんな制度下でも起きる。
ヒーローが全てを一挙に解決することなどない。
それらを断ち切ろうとすると、マルクス主義共産主義新自由主義構造改革になってより悲惨な結果になるから地道にやるしかない。

(要約終)

 

 


(私のコメント終)
(引用開始)


②無駄と必要の境界線

 

 公共投資の事業効果は、民間になぞらえて、投資額に対してどれほどの満足が得られたかの費用対効果とも呼ばれますが、民間企業の場合は、自分が利益を出せば良いのですから評価も簡単ですが、公的事業の場合は、お金の入らない公共施設ですから、いかなる客観的な評価も困難です。

 公共投資の事業効果の評価の困難さの一つに、例えば、新しい道路の交通量が増えても、全体の交通量が増えるわけではありませんから、従来から存在する道路の交通量を減らし、それによって従来の道路の利用度は下がるので、新しい道路の利用度だけでは測るわけには行かないといった、外部不経済の問題があります。

 また、新しく造られた道路だけで考えても、移動時間の短縮、周辺土地の有効利用の可能性の拡大、大規模災害の時の避難経路、などの利便性の向上は容易に想像することが出来るものの、これらを数値化するのは不可能です。

 よって、無知な国民とりわけマスコミは、公共投資を減らしたい扇動家の扇動によって、これらの公共投資を無駄な公共投資だとさんざんに叩きます。

 客観的な評価をすることが出来ないような道路は贅沢とも言えるでしょうが、その贅沢さが豊かさになります。緊急時に通行できる道路を持っておくことは贅沢ですが、同時に、災害の多い日本では必須のものです。そうすると、日本では、この贅沢さは、必ずしも贅沢とは言えず、日本であれば当然の設備だと言うことが出来ます。贅沢と言う概念はあいまいなのです。

 贅沢さは時代や地域によって相対的に評価されるべきものです。自分たちの生活を考えてみても、家族用にしては広大すぎる住居、移動する手段にしては豪華すぎる高級自動車など、本来の役割を超えた無駄な部分が多ければ多いほど贅沢だと言われるはずです。

 しかし、これらも含めて、贅沢なものはしばしば必要なものでもあります。病人のところに救急車が救助に向かうのは、後進国から見れば贅沢とも言えますが、先進国においては、救急車は必要なものだと考えられています。

 そこで、例えば、日本が他国の支配下にあり、支配者が日本人なんかに救急車などは贅沢だと思えば、救急車は無駄なものとして廃止されてしまいます。国際投資家と多国籍企業が支配者になれば、現代の世界でもこういうことが起こります。それはすでに起こっています。社会福祉公共投資が削られている事実がまさにそのことです。自分たちには必要なものでも、自分と共感を持たない他人にとっては無駄でしかないのです。
また、無駄と必要の境界線について、介護福祉の例を考えると、一人の高齢者に対して、一人の介護士が24時間付きっ切り介護することは理想です。これは、やろうと思えば出来ないことではありませんが、全国的に展開できずに、特定の者に対してだけ行った場合、それは贅沢だということになります。全国民に対して行われれば、必要なことだということになります。

 そのことから、公共投資の無駄と必要の境界線は、他の地域または他人とのバランスにあると言うことが出来ます。他の地域や他人にも同様の行政サービスが拡大して行くのなら、最初はどのように無駄と感じられたとしても、最後には無駄という評価にはなりません。

 自分自身にとって、公共投資はどれもこれも存在したほうが良く、その必要性を問われれば、無限に必要だと答えるに決まっていますが、他の地域や他人とのバランスがあって、始めて無駄か必要かの判断が出来ることになります。

 普遍的な行政サービスのひとつと考えられるものは、少なくとも、その成果は収支で量るべきものではありません。赤字の事業を否定すれば、大概の行政サービスは赤字ですから、行政サービス自体が贅沢であり、無駄だということになります。

 新自由主義者は、「全ての行政サービス自体が贅沢であり、無駄だ」という考え方に非常に近いところに居ます。なぜなら、新自由主義者の国民多数(特に低所得者貧困層)に対する共感度は、前出の侵略的な支配者の感情に近いところにあるからです。

 地方自治体などが住民票交付サービスを民営化していますが、これは、無駄だからと言う理由からではなく、公務員給与と民間賃金の格差を利用した経費節減のために行われています。

 公務員は、重い税に不満を持っている住民から地方公務員の給与の高さを批判されたときに、自分たちの給与を下げたくないし、だからと言って、一部の者だけの給与を下げることも出来ませんから、一部の部署を民間に委託して、その部署の経費を下げることにしたのです。いわば、トカゲの尻尾切りです。住民票交付サービスは決して無駄とは言えません。しかし、割と単純な作業であり民間の下請けに出しやすかったのです。

 水道事業やゴミ収集事業なども民営化される可能性がありますが、これらも無駄だからと言うのではなく、経費節減の理由から行われるでしょうし、財政均衡主義の下における自治体の経費節減が他の公務員給与に影響しないようにトカゲの尻尾切りとして行われるでしょう。民間に委託する場合は、請負料金を値切っても、地方公務員の給与には影響しないどころか、値切れば値切るほど地方公務員の給与が守られるので好都合なのです。

 民営化された場合、民間企業の株主は自分の利益しか考えずに、あれもこれも無駄だと言って、労働者の賃金を削り、消費者に対してはサービスを削ります。
しかし、国家全体としては、それなりのものは国民全体が生産しているはずですから、そんなに経費節減しなくても、国民全体に普通に所得再分配が出来るはずです。とりわけ、国防、警察、防災、社会保障、インフラなどの行政サービスを無駄だと言って削られては困ります。

 投資家階級が好んで使う「贅沢」や「無駄」という言葉は、国民に対する「非共感」のサインです。国民全体が生産している生産物を独占したいという気持ちの暴露なのです。

 しかし、そもそも、先進国においては、国家全体、国民全体の生産の90%は贅沢品とか娯楽とかのムダなものです。高級な自動車とか、ブランドもののグッズとか、テレビとか、旅行とか、そういったムダなものが欲しくて、食料、衣服、住宅などの最小限必要な生存物資を作る生産者が頑張ります。そして、最後に、その生産力を総合して、国家および国民を守る最新鋭の軍需品が生産されるのです。国家の安全保障は、あらゆる政治政策、あらゆる経済政策の頂点に位置します。

 国家や国民を守る安全保障は絶対に必要であり、その安全保障を支えるものとしては、防衛機器から個人用のインターネットにまで広がります。食料は、栄養と衛生と嗜好のバランスが幾重にも試行錯誤され、進歩し、兵士や国民生活を支えています。

 また、道路は、交通量の多い生活道路や産業道路から緊急避難道路まで、どこからどこまでが何に該当するかをキッチリと仕分けすることは出来ません。モノの性質に焦点を当ててみても、贅沢品や娯楽と生存の必需品の境界線は簡単に分かりません。

 これらの必需品から贅沢品までのあらゆるものを国民が手に入れることで、豊かな生活を生み出して行き、経済成長させることが可能となり、同時に、有効性の高い安全保障(国防力)を獲得して行くのです。

 天下り先になるとか、政治家と業者の利益になるとかの動機については腹が立ちます。その犯罪者たちを無慈悲に懲罰すべきです。だからと言って、事業そのものを止めるというのは、暴論であるし、頭が悪すぎます。それなら、国民に対する事業の大切さの検討はどうするのでしょうか。

 無駄と必要の明確な境界線は今のところ存在しません。しかし、その境界線を決めなければならないと、意気込む必要はありません。その都度、ゆっくりと、政治的に決めるべきです。どのような事業にも、天下りや利権が絡みます。そのことについては、個別に、小まめにチェックして行かなければなりません。そこに、市会議員や県会議員などの地方政治家の役割があるはずです。しばしば、地方政治家は、その役割のサボタージュが問題なのに、不可抗力を装い、事業そのものが悪いと言いたがります。

 地方政治家が無能であれば、選挙で議員を落とすしかありません。それでまた、その議員が当選するのであれば、国民が政治家の良い者と悪い者を選り分ける意志を持たなかったというだけの話なのです。地方政治家の質の悪さはすべて住民の責任です。

利権屋が暗躍しようとも、それらの奸知や怠惰は人間の本質であり、資本主義であろうと、共産主義であろうと、そしてまた、ケインズ主義であろうと、新自由主義であろうと、同じように起こります。ヒーローが全てを一挙に解決してしまうというようなマンガのような思考はやめるべきです。地道にやるしかありません。現実の世界では大体において、小泉純一郎氏、竹中平蔵氏、安倍晋三氏の例を上げれば判りやすいと思いますが、そのヒーロー自身が悪魔でした。

 市民運動や選挙を通じて行うこれらの不具合の解決方法は、特効薬の無いイタチゴッコになるかも知れませんが、それを断ち切ろうと思えば、マルクス主義共産主義)や新自由主義構造改革)になってしまい、より悲惨な選択となりますから、イタチゴッコであろうとも粘り強く続けて行くしかありません。

 

(引用終了)

(要約引用開始)
http://totb.hatenablog.com/entry/2018/04/19/065439
Think outside the box
MAKE JAPAN GREAT AGAIN
2018-04-19
貧国弱兵はコスパが良い


(前略)
結局のところ、日本が抱える多くの問題と同様に、日本の経済停滞に根本要因がある。「過去最大の防衛費」とはいいつつも、実態としては日本の相対的な退潮を示していると見ることもできるだろう。


(中略)

 

小泉首相の「米百俵」や民主党政権事業仕分け、あるいは「身を切る改革」を熱狂的に支持した国民が多かったことからも分かるように、日本人は自分たちの生活を豊かにするための支出であっても「無駄」と毛嫌いするようになっています。国防も無駄、防災も無駄、インフラストラクチャー整備も無駄、基礎研究も無駄、文化振興も無駄*2、公立病院も無駄*3、妻子持ちの男に年収600万円を払うことも無駄*4、あれも無駄、これも無駄、それも無駄、無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄という文化大革命のような一億集団ヒステリーです。*5

*5:財務省の緊縮政策は「無駄の削減」を求める民意に支えられているとも言えます。昔は戦争、今は緊縮政策を支持しているのが民意です。

赤の女王の台詞を借りれば、先進国であり続けるためには十分な投資(人的も含む)を続けなければなりません。しかし、それは無駄なので、コスパに敏感な日本人は投資を削って「衰退途上国」になるという選択をしたのです。

(後略)

 

(要約引用終了)

 

1804-12-1239-4/16メルマガブログ転送日本経済停滞の真因2

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https://www.youtube.com/watch?v=s8y0fk90-OQ

チャンネル桜
(見出し)
【経済討論】財務省主導の経済でいいのか?日本[桜H30/4/14]

(私のコメント)
この討論は非常に面白いから是非見てもらいたい。
内容が濃いので要約が間に合わず、取り敢えず見てもらった方がよいでしょう。
ようつべで検索すればスマホで聞けるから簡単だ。
前回の中野剛志さんの記事と合わせて考えれば分かりやすいと思います。

(私のコメント終)

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https://toyokeizai.net/articles/-/164105
東洋経済

(見出し)
財政赤字の拡大」は政府が今やるべきことか
日本の20年にも及ぶ長期停滞の真因
中野 剛志 : 評論家
2017年03月28日


(私のコメント)

(要約)

「日本政府は、財政健全化に向けた努力などはしてはならない。
なぜなら、政府が財政赤字を削減しようとしてもどうせ徒労に終わるからであり、
それ以前に、そもそも日本政府は財政を健全化する必要などないからだ。
政府が今やるべきことは財政赤字の拡大なのであって、とりあえず、財源など気にする必要はない」
*その理由*
マクロ経済は国内民間部門、国内政府部門、海外部門から成り立っており、
ある部門における収支の赤字は他の部門における黒字によって相殺される。
よって、「国内民間部門の収支+国内政府部門の収支+海外部門の収支=0」という恒等式が事後的に成立している。
(私の注;)
簡単に言えば、民間経済と政府経済は鏡のように反対に動く関係にある、と理解すればいい。
海外部門も関係するから、もう少し複雑だが、ごく簡単にはそういう風に理解しておけばよい。
例として、米国1990年代政府経済は黒字だったが、民間経済は赤字だった。
2000年代は政府も民間も赤字で海外が黒字だった。
日本経済で言えば、1990年代政府部門が赤字から黒字に転換したが、民間は逆に黒字から赤字に転化した。
こういう関係から、「財政健全化」つまり政府部門の黒字化をしたいなら、民間を赤字にすればよい、ということになる。
民間が赤字になる、という状態とは、例えば、皆が借金をして資産を買うような、バブル時代をイメージすればいい。
すなわち、バブルと行かないまでも、インフレにして民間の景気を良くすれば、民間は借金を増やして設備投資などを行うから赤字になる。
今、日本はデフレで景気がどんどん悪くなっているから、皆カネを貯めて使わない。
こういう状態なのに、政府は消費税を上げたりして増税しているが、これは逆効果だ。
また、財政健全化と称して歳出削減を行うが、これもそれによって民間が赤字になるわけでないから無駄な努力だ。
では、どうすればよいか、と言うと、これも簡単で、民間の景気を良くすればよい。
民間の景気を良くするには、財政健全化と増税は止めて、その逆の政策を行えばよい。
すなわち、国債を発行して公共投資を行い、減税を行うことだ。
これに対して、現在財政削減と増税を行う政権側は、マスゴミや学者を動員してあれこれ言うが、それらは全て嘘だ。
嘘だ、という論拠がこの記事の後半に説明されている。
「財政破たんはありえない」「政府債務の累積は金利の高騰を招く、ということもない」「ハイパーインフレなんて起きない」
「税金は政府の活動の財源でなく、政策手段に過ぎない」(これ大事だ)

 

(私の注;終)

 

(私のコメント終)
(引用開始)
近年、財政健全化が急務との掛け声の中、消費税増税などの税制改革が進められている。
だが一方で、増税による景気の停滞も生じている。このもつれた糸を解きほぐす手段はないのか?
2017年度予算案が成立した今、近著『富国と強兵 地政経済学序説』の第3章でこの問題を解き明かした筆者が、
オンライン読者に向けて改めて解説する。

財政を健全化させる必要などない

『富国と強兵?地政経済学序説』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
2016年のわが国の政府債務残高は、対GDP国内総生産)比でついに約230%を超え、先進国の中でも最悪の水準になるという(出典はこちら)。

こんな状況にもかかわらず、次のように主張するとしたら、どう思われるであろうか。

「日本政府は、財政健全化に向けた努力などはしてはならない。
なぜなら、政府が財政赤字を削減しようとしてもどうせ徒労に終わるからであり、
それ以前に、そもそも日本政府は財政を健全化する必要などないからだ。
政府が今やるべきことは財政赤字の拡大なのであって、とりあえず、財源など気にする必要はない」

こんなことを主張したら、たちどころに「とんでもない暴論だ」と一蹴されて終わりであろう。
しかし、実は、これを暴論と感じるのは、マクロ経済、財政そして通貨の本質を正確に理解していないからなのである。
どれだけ通説や常識に反していようと、これこそが正解なのである。
政府部門の黒字化とバブルは表裏一体
まず、当たり前の話から始めよう。

あらゆる支出は、誰かの所得として受け取られるものである。したがって、経済全体でみると、支出の総計は所得の総計に等しくなる。

さて、マクロ経済は国内民間部門、国内政府部門、海外部門から成り立っており、
ある部門における収支の赤字は他の部門における黒字によって相殺される。
よって、「国内民間部門の収支+国内政府部門の収支+海外部門の収支=0」という恒等式が事後的に成立している。

この等式から明らかなように、国内民間部門、国内政府部門、海外部門のうち、ひとつの部門の収支を変化させるには、
他の2部門の収支も変化させなければならない。したがって、政府の赤字の減少は、国内民間部門か海外部門の赤字の増大に対応することになる。

たとえば、米国の国家財政は1990年代後半に黒字化したが、これは「民間部門の赤字+海外部門の黒字=赤字」の裏返しである。
この時期の民間部門の赤字は、いわゆるITバブルの発生により民間債務が急増したために発生したものであった。
実際、1990年代末にITバブルが崩壊すると、それとともに財政の黒字化も終わった。

2000年代前半には財政赤字が拡大し、かつ民間部門の赤字も増大した。
この政府部門と国内民間部門の赤字の増大は、海外部門の黒字の増大によって相殺されたのである。

日本経済でも同様の現象が観察できる。

1980年代後半、日本の財政赤字は縮小し続け、1990年には黒字に転じたが、同じ時期の民間部門の黒字は対照的に減少し続け、
1990年に赤字に転じている。この民間部門の赤字はバブルによる過剰債務を示すものである。
民間部門がバブルにより債務を増大させたことの裏返しで、政府部門の債務が減少しているというわけだ。
そして、バブルが崩壊し、さらに1990年代後半にデフレに突入すると、民間部門は債権を増やし、
その裏返しとして政府部門に債務が累積するようになった。

なお、2000年代前半には政府部門の収支バランスが改善したが、同時に海外部門の収支バランスが悪化している。
これは、米国の住宅バブルによる好景気の影響で、日本の輸出が増大したことも影響している。

***
出所:内閣府のデータを基に、京都大学大学院工学研究科藤井聡研究室作成
こうして見ると、政府部門の黒字化とは、バブルの発生と併存していることがわかる。
財政の黒字化とは、バブルの裏返しであり、けっして望ましいことではないのだ。

財政悪化の原因は、ひとえに不況
さて、「国内民間部門の収支+国内政府部門の収支+海外部門の収支=0」という構造の下で、国内政府部門の収支を改善するには、
どうしたらよいのだろうか。

政府は「税率」を上げることはできる。しかし、「税率」を上げたところで、「税収」までも上げることはできない。
なぜなら、政府の税収は、経済全体の景気動向に大きく左右されるからである。
政府は、財政支出を削減することもできるが、やはり税収が減ってしまえば財政収支は改善しない。

要は、すべて景気次第なのである。だから、増税や歳出削減によって財政を健全化しようとしたところで徒労に終わるだけなのだ。

日本においては、1990年代初頭から今日に至るまで、財政健全化の試みが繰り返されてきたが、財政は基本的に悪化し続けてきた。
しかし、それは政府の無駄な支出増のせいではなく、税収の減少と社会保障費など経常移転支出の増加のせいであり、
そうなった原因はひとえに不況にある。

この20年の間に欧米諸国の名目GDPは2倍以上になった。
もし日本が欧米並みに成長していれば、それだけで現在の名目GDPは1000兆円を超し、社会保障の財源など問題にすらなっていなかったはずだ。

景気が悪ければ、財政当局がどうあがいたところで、政府部門の赤字を減らすことはできないのだ。

では、海外部門の収支を操作することにより、財政健全化を目指すことは可能であろうか。

「国内民間部門の収支+国内政府部門の収支+海外部門の収支=0」の等式に従えば、
確かに財政赤字の削減は、海外部門の赤字(経常収支の黒字)を増加させることでも相殺できる。
しかし、経常収支は、内外の景況や為替レートなどさまざまな要因によって決まるので、それを国家政策によって操作するのは非現実的である。

それに、経常収支黒字の増加を目指す政策というのは、とりわけ現在のように世界的な不況にある中では、
輸出によって相手国の市場と雇用を奪うことになる。これはいわゆる近隣窮乏化政策であり、採用すべきものではない。

結局のところ、日本が財政赤字の拡大に歯止めをかけることができないのは、歳出削減の努力が足りないからではない。
マクロ経済の構造からして、政府が財政健全化を目指しても、無駄な骨折りに終わるのだ。
日本の財政破綻はありえない
そもそも、日本政府には、財政を健全化する必要などない。

政府は通貨発行の権限を有するので、通貨を増発して債務の返済に充てることができる。

個人や企業であれば債務を返済できなくなって破綻することはありうる。
しかし、政府が自国通貨建ての国債の返済ができなくなることは、政治的意志によって返済を拒否しないかぎり、理論的にありえないし、
歴史上もそのような例はないのである。

そして日本の国債はほぼ全額が自国通貨建てである。それゆえ、日本政府の財政破綻はありえない。日本は財政危機ではないのだ。

もし日本の財政が危機的ならば、長期金利が急騰していなければおかしい。
しかし、2000年代以降、政府累積債務の増大にもかかわらず、長期金利は世界最低水準で推移しており、2016年にはついにマイナスを記録している。

長期金利の低迷の理由は、デフレ不況により資金需要が不足しているからである。デフレ不況であるかぎり、
いくら政府債務が累積しようが、金利が高騰することはありえない。
実際、ある推計によれば、2000~2007年における財政赤字の1兆円の増加は、長期金利を0.15~0.25bsp(1bspは0.01%)引き上げただけだった。

それでも財政危機論者は、政府債務の累積はいずれ金利の高騰を招くと警鐘を鳴らす。
確かに、銀行が国債よりもリスクの高い資産を購入するようになれば、国債金利は上昇する。
しかし、それは景気が回復しているということを意味する。金利の上昇を恐れるということは、景気回復を望まないというに等しい。
しかも景気が回復すれば、税収が増えて財政赤字は減少するのである。

それでもなお、何らかの理由で、どうしても金利の上昇を回避したいというのであれば、
現在、日本銀行がやっているように、中央銀行国債を購入すればよいだけの話である。
租税は財源確保ではなくマクロ経済政策の手段
財政赤字の拡大は過度なインフレをもたらすと警告する者もいる。

政府支出の拡大により総需要が過多になれば、インフレが起きるというのは正しい。
しかし、この約20年間、日本はデフレ不況の中にいるのである。ということは、総需要が不足しているということである。
それは財政赤字が過大なのではなく、むしろ過少であるということを意味する。

政府債務残高が対GDP比で230%を超えようが、それが先進国の中で最悪の水準であろうが、
物価が上昇していない以上、日本の財政赤字は少なすぎると言うべきなのだ。

「政府が財政破綻しないというのならば、政府が税金で財源を確保する必要はないというのか」と思われるかもしれない。
実は、そのとおりなのである。

ほとんど理解されていないことであるが、租税とは、政府の財源確保の手段ではない。
「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」が教えるように、
租税とは、国民経済に影響を与え、物価水準、雇用水準、金利水準あるいは富の再分配を操作するためのマクロ経済政策の手段なのである。

たとえば増税は、総需要を抑制し、インフレを阻止するために必要となる。
反対に、デフレのときに必要となるのは、減税なのである。そう、今の日本に必要なのは消費増税ではなく、消費減税なのだ。

それにもかかわらず、増税や歳出抑制によって財政赤字の削減を目指せば、デフレ不況が悪化し、日本経済は衰退の一途をたどるが、
不況による税収減によって財政健全化はかえって遠のくことになる。

要するに、日本経済の20年にも及ぶ長期停滞は、できもせず、すべきでもない財政健全化に固執し続けたことの当然の結果なのである。
何も不思議なことではない。

 

 


(引用終了)

 


https://toyokeizai.net/articles/-/216132
東洋経済

(見出し)
米国の関税戦略に「日本封じ込め」の意図あり
トランプに対抗し、再び「富国強兵」を目指せ

中野 剛志 : 評論家 2018年04月13日

(私のコメント)

中野 剛志さんの著書はほとんど全部読んでいるが、大変優秀な人だ。
内容もすごいが、何より分かりやすいことが良いと思います。
今も、柴山先生との対談本を読んでいる。
下記の記事は、要するに国家というものは経済力と軍事力が大事だ、ということだ。
国家とは領土、国民、政府の三つがその構成要素だ。
この三つは排他的なもので、排他的だから国家は必然的に戦争をするためにある、と言っていい。
歴史的に見ても、国民国家というものはフランス革命以降に発生し、戦争を前提にして国家は発達してきた。
こういう基本を押さえて、世界情勢を見たほうがよいだろう。
なお、国家は戦争を前提にしたものだ、という定義からすれば、日本は国家でない。

(私のコメント終)
(引用開始)

(前略)

トランプ大統領の明確な戦略性
米国の鉄鋼とアルミ製品への関税の適用に対して中国は、4月2日、報復として米国からの輸入品に関税を上乗せした。すると米国は、3日、知的財産権侵害を理由に通商法301条に基づき、半導体などハイテク分野を中心に約500億ドル相当の関税を課すと発表した。

4日には、今度は中国が航空機、大豆、自動車を含む106の米国製品への500億ドル相当の報復関税計画を発表すると同時に、米国を世界貿易機関WTO)に提訴した。

すると米国は中国の報復関税に対する報復として、5日、1000億ドル相当の中国製品に対する追加関税措置を検討すると発表した。

こうした中、習近平国家主席は10日、自動車への輸入関税を今年引き下げ、自動車合弁の外資出資規制を緩和する方針を表明したが、これに対する米国の反応は、本稿執筆時点においては明らかではなく、米中関係は、まさに典型的な貿易戦争の様相を呈している。

しかし、この米国による関税措置を、トランプという非常識な言動の多い大統領による理不尽な政策として片づけてしまうと、その本質を見失うことになろう。

まず、関税の適用対象となった国々を見てみると、米国の明確な戦略性が浮き彫りとなる。

たとえば、米国の鉄鋼の主な輸入先の約半分を占めるカナダ、ブラジル、韓国、メキシコの4カ国が、暫定的に適用対象から外されている。関税引き上げは、輸入品の価格高騰によって国内経済に打撃を与え、国民からの反発を招くおそれがある。それを計算に入れて、この4カ国の適用を除外した可能性がある。

また、暫定的に適用除外とされた韓国、カナダおよびメキシコ、EUは、米国と貿易協定の協議中である。この関税措置を利用して交渉相手国に譲歩を迫る意図があることは明白だ。そして、日本に対しては、関税の適用対象にすることで、米国との二国間貿易交渉に追い込もうとしていることは言うまでもない。

各国が米国に対して対抗措置をとり、米国が孤立するというリスクについても、トランプ政権は考慮に入れている。たとえば、事前に断固たる報復措置を示唆していたEUやカナダは、適用対象外となった。また、一律・無差別な関税措置ではないので、各国が一致団結して反発し、米国が孤立するという構図にもなりにくい。適用除外国にとっては、他国に関税が課せられていることは、むしろ望ましいからだ。
中国との「貿易戦争」は狙いどおり
これに対して、中国との貿易戦争については、米国は織り込み済みであったと思われる。むしろ、それが狙いであったとすら言える。

第一に、中国との貿易によって米国が不利益を被っているというトランプ大統領の主張は、必ずしも間違いではない。

経済学者は伝統的に、自由貿易は各国の経済厚生を向上させると信じてきた。そして、自由貿易に反対する者を、経済学の初歩をも知らぬ愚か者と見下してきた。

ところが、ここ数年、デイヴィッド・オーター、デイヴィッド・ドーン、ゴードン・ハンソンといった優れた経済学者たちの一連の研究によって、中国がWTOに加盟して自由貿易体制に参入して以降、米国の製造業の雇用が打撃を受け、労働者が不利益を被っていることが明らかにされている。

自由貿易論者は、この労働者の不利益を過小評価している。なぜなら、自由貿易の理論は、自由貿易によって失業した労働者が出たとしても、その労働者はすぐに別の産業で雇用されると仮定しているからだ。

しかし、一般常識で考えても、ある産業で失業した労働者がすぐにほかの産業で雇用されるなどということは現実にはありえない。オーターらの実証研究は、この常識を確認するものであり、1999年から2011年の間に、米国は中国からの輸入の増加によって240万人の雇用を失ったと推計している。

中国との自由貿易によって米国の雇用が奪われたというトランプの主張には根拠があるのだ。また、今般の関税措置の理由の1つとなった中国の知的財産権の侵害についても、周知の事実である。

ちなみに、自由貿易論者は、1930年代の米国による関税引き上げ(スムート・ホーリー関税法)とその報復の連鎖が保護主義の台頭を招き、世界恐慌を悪化させたという説を歴史の教訓として持ち出すが、この説は誤りである。実際には保護主義の連鎖による悪影響はわずかであったことが複数の研究者によって明らかにされている。景気の悪化が保護主義の台頭を招くのであって、保護主義の台頭が景気を悪化させるのではないのだ。

しかも、今回の関税措置は、すでに述べたように適用対象国を限定している。したがって、今回の関税とその報復の連鎖については、もちろん、被害を受ける個別の産業はあり、また株価の下落による一時的な不利益もあろうが、マクロで見た世界経済や米国経済への悪影響については、さほど怖れる必要はないであろう。
第二に、中国との自由貿易によって米国が被った不利益には、安全保障上の問題も含まれる。

冷戦終結後の米国は、中国に自由貿易体制の恩恵を享受させれば、中国が米国主導の国際秩序に挑戦することはなくなるだろうという戦略に立っていた。その背景には、自由貿易は平和をもたらすというリベラリズムの信念があった。米国が中国のWTO加盟を後押ししたのも、このリベラルな戦略ゆえであった。

ところが、中国の戦略は「富国強兵」であった。中国は自由貿易体制に組み込まれた2000年代初頭以降、目覚ましい経済成長を遂げるのと並行して、軍事力を驚異的なスピードで拡大し、東アジアにおけるパワー・バランスを動揺させるに至ったのである。自由貿易によるリベラルな国際秩序の建設という米国の戦略は、中国の富国強兵の前に敗北を喫したのだ。

米国も、さすがに2000年代後半には、「自由貿易による平和」が幻想にすぎなかったと気づいた。前オバマ政権がアジア重視戦略を打ち出したのも、そのためだった。しかし、このアジア重視戦略は、中国の富国強兵を阻止するうえでは、ほとんど何の効果もなかった。

今回の関税措置は、この冷戦終結後の米国の対中戦略の失敗とその反省という脈絡の中に位置づけて、理解すべきなのである。

ただし、米国は、1つ、大きな戦略的ミスを犯している。

米国は、今回の関税措置において、中国に対して特に強硬な姿勢で臨むと同時に、ロシアも適用対象国とした。その結果、米国市場へのアクセスを制限された中国は、ユーラシア大陸の内陸部への進出をより強めるであろう。ロシアもまた、中国への接近を図るであろう。

こうして、トランプの関税措置は、ユーラシア大陸を勢力圏におさめようという中国の「一帯一路」戦略を加速し、強化してしまうのだ。ユーラシア大陸内陸部を勢力圏におさめたら、中国は、今度は南シナ海、そして東シナ海への進出を本格化させるであろう。要するに、日本の安全が危うくなるような地政学的変化が引き起こされるのだ。

日本は報復措置を怖れる必要のない相手
ところで、なぜ米国は、安全保障を理由とする関税措置の適用対象から、同盟国の日本を除外しなかったのか。実は、これは、さほど不思議なことではない。

まず、押さえておかなければならないことは、そもそも日米同盟は、かつてのソ連や現在の中国・北朝鮮に対する封じ込めであると同時に、日本に対する封じ込めとしての性格を併せ持つ「二重の封じ込め」であったということだ。つまり、親米派がどう信じようと、米国にとって日本は、安全保障上の潜在的な脅威の1つに数えられるのだ。

この日米同盟の「日本封じ込め」の側面に着目するならば、米国が安全保障を理由に日本を関税措置の対象としたことは、驚くには当たらない。
次に、「二重の封じ込め」の「中国・北朝鮮封じ込め」の側面に着目するならば、日本は、確かに日米同盟のおかげで、中国・北朝鮮という地政学的脅威に対抗している。しかし、このように自国の防衛を米国に依存している状態にありながら、米国の要求をはねのけるなどという選択肢は、日本にはないに等しい。つまり、米国にとって日本は、EUやカナダとは異なり、報復措置を怖れる必要のない相手なのだ。

米国が、この日米同盟の「二重の封じ込め」の構造を利用して、日本にさまざまな経済上の要求をのませる。これは、何も今になって始まったことではなく、これまでもそうであった。「それは、トランプ政権の下でさらに決定的なものとなろう。これは構造的な問題であって、日米首脳が信頼関係を構築すれば回避できるといった類のものではない」と、筆者はトランプ政権発足直後に警告を発しておいた(日米首脳の蜜月こそが日本経済の「足かせ」だ)。

米国の要求を受け入れつつ、日本にも利益となる方法
さらに深刻な事態も予想される。

もし米中貿易戦争がエスカレートし、巨大な中国市場へのアクセスを制限された場合、米国は東アジアへの関心を大きく低下させるであろう。そのとき、米国の東アジアからの撤退がいよいよ現実味を帯びてくる。それを怖れる日本は、今後、ますます米国の要求を拒否できなくなるであろう。反対に、中国が米国の要求に応じた場合には、米国はその標的を日本市場に絞ることとなる。


『富国と強兵 地政経済学序説』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
さて、以上のような全体構造を直視するならば、今回のトランプの関税措置に対し、わが国が打てる手はほとんどないかにみえる。

しかし、1つだけ、米国の要求を受け入れつつ、日本にとっても大きな利益となる方法がある。

それは、米国の貿易黒字削減要求に対して、内需拡大によって応じることだ。内需拡大による経済成長は、米国からの輸入を増やすというだけでなく、日本国民を豊かにする上でそもそも必要なことだ。

内需拡大の実現には、積極的な財政出動が不可欠であるが、日本が財政赤字を懸念する必要がないことは、すでに証明しておいた(「財政赤字の拡大」は政府が今やるべきことか)。

さらに、拡大した財政支出の一部を防衛力の強化に向けるならば、なお賢明である。

明治維新からちょうど150年の今年、再び「富国強兵」を掲げるべき、いや掲げざるをえない時代が来た。今回の米国による関税措置は、そのシグナルとして認識しなければならない。自由貿易、日米同盟、財政再建を巡るこれまでのドグマにとらわれていては、この富国強兵の時代を乗り切ることはできないのだ。

 

 


(引用終了)

 

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学校では教えてくれない保守思想01
2013/03/05 に公開
もぎせか塾2013春 2013.3.3 浦和コミュニティセンター
1804-4-1231-4/6メルマガブログ転送保守思想講義1

(前回の記事の要約)
(引用開始)
1804-4-1231-4/6メルマガブログ転送保守思想講義1
(要約)


今まで戦後の常識である、自分たちが戦争をしなければ戦争は起きない、という思想が覆る時代が来た。
自分たちが戦争したくなくても相手が戦争を望めば戦争は起きる。

1945年昭和20年敗戦から、日本は自国を守れない国になった。
これらの日本を支配する思想、又は憲法の思想を「リベラル」と言う。
リベラルは、一般的に人権、自由、平和を求める、思想をいう。
我々はこのリベラルを批判する立場だが、この立場に立つ思想を「保守」という。

「保守」とは何か、ということを勉強する。
革新progressivism、改革reformation、革命revolution、
に反対する概念として、保守conservatismがあるが、この言葉がどうして生まれて来たか、を勉強する。
この言葉は、イギリスで生まれた。
学校では意図的にこの言葉については教えない。
教科書などには出てこないが、これも戦後の歪んだ思想の現れだ。

(私の注;
保守思想とは福田 恆存(ふくだ つねありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%81%86%E5%AD%98)が言うには、
「生活態度」のことである。
生活態度というのは日常無意識のうちに文化や伝統、宗教や道徳に従って生活し、善悪の判断をしている、そういうものを保守、という。
例えば、神道は日本人の生活の中に根ずいている。
欧米ではキリスト教文明だ。
皆無意識の中に組み込まれた遺伝子レベルの行動を含む。
こういうものをリベラルは古い因習などと言って嫌うが、それは彼らの教義をそれに置き換えたいのだ。
保守思想は、リベラルのように教義や思想に従っているわけではないから、わかりづらいのだ。
簡単に言えば、リベラルは人権、平等などの理想的思想から現実を考え、保守は現実の生活から物を考える、ということだろう。

リベラルが世界を支配するにつれて、大虐殺が起きたりして、それでは困るから保守の側も理論武装し始めた、というのが保守思想で、積極的なものでない。


最初の話は、英国のマグナカルタにさかのぼる。
(私の注;マグナカルタhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF
直訳では「自由の大憲章」)は、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章である。
イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。


ヘンリープラクトンhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%B3
13世紀イギリスのローマ法学者、聖職者。
イングランドにも文字になっていないが、ローマ法と同じようなアングロサクソンの法がある、と考えた。
この慣習法を文字にして体系化した。

「国王といえども神と法の元にある。なぜなら、法が王を作るからである」
13世紀の段階で、王様が法を作るのでなく、法の下に王が居て、王様も法に従うのだ、と言っている。
この考えから、その法を作る為に議会が生まれ、議会のコントロール下に王様が入るシステムが可能になった。
(要約終)

(今回ここから)
エドワードコーク
16世紀から17世紀

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AF
サー・エドワード・コーク(Sir Edward Coke, 1552年2月1日 - 1634年9月3日)は、イングランドの法律家・政治家。
中世ゲルマン法に由来するコモン・ローの法思想を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、「法の支配」という憲法原理を確立した。英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。
(私の注;当時の時代背景
コークはエリザベス女王の次の王様であるジェームズ一世時代の人。イギリスが絶対王政で権力が王様に集中した時代。
国王ジェームズ1世が王権神授説をもって国王主権を主張したのに対して、
コークが「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない。」と主張したところ、
気分を害したジェイムス1世が「王である余が法の下にあるとの発言は反逆罪にあたる。」と詰問したのに対し、
コークは、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺を引用して諫めたとされる[2]。

ただしコークは、国王・王室を篤く崇敬する国王大権の支持者で、反国王・反王室のイデオロギーの持ち主ではない。
コークの主導の下、国庫歳入を保留することにより、1628年に庶民院イングランド王チャールズ1世に、コークの『権利の請願』を奏上し承諾を得た。
***
1610年のコークによる医師ボナム事件の判決は、コモン・ローに反する法律(制定法)は無効であると判示したとされ、
「アメリカ建国の父」であるアレクサンダー・ハミルトン違憲立法審査を考案する契機となったとされている。
コークの著書の写しは1620年にメイフラワー号に乗って北アメリカに渡り、
イギリス植民地のすべての法律家がコークの本、特に『判例集』『イギリス法提要』に学んだ。)

(私の注;ジェームズ6世(スコットランド王として6世、イングランド王として1世)はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。
ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である。
***
ジェームズ一世はスコットランドイングランドの統一を望み、強硬に反対されたが、現在の英国国旗「ユニオンフラッグ」を制定するなどした。
ジェームズ一世の次の王様はチャールズ一世で、彼はその後清教徒革命(1641年)で処刑された。
***
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。
宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、清教徒革命に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。)
***

当時の王様であるジェームズ一世は、フランスの王権神授説を真似して国王に絶対的な権力主権があると主張した。
コークはそれを否定し、国王といえどもコモンローには従わなければいけない、と言った。
当時すでに忘れ去られていたマグナカルタを根拠に、プラクトンの法理論も合わせ、
「王といえども法には従わなければならない」「マグナカルタの上に王を持たない」といった。
国王に対し「権利の請願」(議会の承認無しに税を取らないなど)を提出したが、この文書の起草者がコークだった。

これで分かるように、保守思想は絶対王政専制君主制を認める、ということではない。

コークの思想まとめ

1.イギリス古来の制定法、判例、慣習をまとめたものをコモンローという。
2.コモンローは英国臣民の生命、自由、財産、道徳を守ってきたものだ。
3.コモンローは固定的なものでなく、発見されて追加されるものである。
4.決まったものでなく、時代によって変わってゆくものだ。その変化は判例によって行われる。

この人の「イギリス法提要」はアメリカに渡り、アメリカ独立戦争と建国に大きな影響を与えた。

コークについては学校で絶対に教えない、習わない。
(私の注;学校で教えないのは、意図的に情報を隠すことによって自分たちのイデオロギーに誘導しようとしているから。
丁度今のマスゴミが「報道しない自由」「編集権」などと称して自分たちのイデオロギーに都合の悪い情報を報道しないのと同じ)

ウィリアムブラックストン

(私の注;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3
ウィリアム・ブラックストン(William Blackstone、1723年7月10日 - 1780年2月14日)は、
イングランドの法学者である。
代表的な著作である "Commentaries on the Laws of England"(1765年-1769年出版、『イギリス法釈義』)は、
イギリス法の解説書であり、コモン・ローの歴史を研究する上で必携の書となっている。
ブラックストンが執筆した『イングランド法釈義』は現代アメリカの裁判においてもしばしば引用され、
英米法のなかではなくてはならない書のひとつとなっている。)

コモンローの集大成を行って「イングランド法釈義」という本を書いた。
この本もアメリカ独立に影響を与えた。
すなわち、イギリスの王様に逆らってもよいのだ、という理屈の根拠を与えたので独立が出来たのだ。

(私の注;この講義は、イギリスのマグナカルタに始まるコモンローについての解説になっているが、これが保守思想とどういう関係があるのか。
それは、いわゆるリベラル思想に対立する保守思想を理解するには基礎知識として英国の歴史の流れを知っておく必要があるからだ。
リベラル思想というのは、ルソーの社会契約説からフランス革命啓蒙思想など、ヨーロッパ大陸で主にで出来上がってきたものだ。
つまり、リベラルと保守というのはフランスとイギリスの歴史がそれぞれ裏打ちをしている。
勿論両国だけでなく、ドイツやアメリカなどいろいろな影響があるが、簡単に言ってしまえばイギリスとフランスの歴史だ。
その為に、リベラルと保守の違いを知るには両国の歴史を学ぶ必要があるのだ。

(私の注;なお、日本には日本の歴史があって、それに伴う思想があるが、戦争に負けてから顧みられない。
日本の思想を論じたものは沢山あるが、日本の思想ではリベラルと保守という切り分けがそもそも無いのだ。
儒教本居宣長国学の対立や、儒教内の朱子学陽明学の対立など、思想上の対立はあるが、歴史が違うから似ているかもしれないが別物だ。
リベラルと保守は、欧米のユダヤキリスト教文明を基盤として生まれたもので、シナ文明や日本文明とは違った文明の話として見た方が良い。
あまり、欧米文化だけのめり込んで視野狭窄にならない方が良く、日本の神道国学論語、仏教哲学などもなども研究しておいた方がよいだろう。)
(私の注;イギリスの保守思想は、要するに王様が勝手に重税を課してもらっては困る、という話が出発点だ。
上記の講義で言えば、マグナカルタはジョン王が戦争に負けて増税しようとして失敗したのだし、
ジェームズ一世もチャールズ一世も増税が反対された。
アメリカ独立のきっかけは、茶に関税を掛けようとしてもめた事件だ。

税金を取るな、という現実から出発して皆が困ることを修正しようとしているだけで、保守だから反対しているわけでない。
税金取られて困るから、その点について王様に反抗しているので、理念からでなく、生活が原点になっている。
リベラルの人権などの美しい話は出てこないので、人間には人権があるから税金を負けろ、なんてことは言っていない。

注意すべきは、税金を払うこと自体は否定していないし、王様も始めは否定はしないところで、ここに保守思想がある。
これがリベラルの急進的な革命と異なる考えだ。

王様の方から見ても、重税で人気が無くなればその地位は危うくなるから、コモンローに従った方が良い。
反対すると、清教徒革命でチャールズ一世は殺されたようになる。)

(私の注;この講義では王様に反対する側を保守としているが、実は王様に反対するのだから、そちらの側が革新のはずだ。
王様の言うことを聞くのが保守で、聞かないのがリベラル、という切りわけでないなら、その違いは何か。
保守は昔の儘にして変えない、という思想でないのでリベラルと重なる部分もあって、わかりずらいのだ。
例えば、自由というのは保守も信奉する。マグナカルタも別名「自由の章典」という。

違いは一応、問題解決の方法として急進的でなく、極力変える部分を少なく、昔の状態を残しながら変える、という方法が違う、ということなのだろう。
これと対極にあるのはフランス革命で王様を殺して全部一遍に変えようとした。
これがリベラルの原点で、こういう急進的な動きを否定するために、マグナカルタから勉強しているわけだ。
次回のエドマンドバークで、いよいよフランス革命とバッティングするが、その理解のための基礎知識がこれまでの講義になる。)

 

 

 

 

(引用終了)

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https://www.youtube.com/watch?v=44mVzPtVbZg
日本におけるクラウゼヴィッツ理解は根本的に間違っている|地政学者・奥山真司の「アメリカ通信
(見出し)


(私のコメント)
クラウゼヴィッツ戦争論

戦いの三位一体理論
軍隊、政府、国民
この理論はテロなどの発生で否定されるが、それは誤解で、実際はクラウゼヴィッツは次の通り言う。
チャンス、理性、情熱
これが、クラウゼヴィッツのいう三位一体論で、この三つが充分にあれば戦争に勝てる、と言った。
これを伸ばして考えると、チャンスは軍隊、理性は政府、情熱は国民が持つべきものだ、と置き換えた。
これが誤解されたので、クラウゼヴィッツが言いたいのは、世の中で成功するには「運、理性、情熱」だ、と言ったのだ。
これをもっとわかりやすく応用すると、
「才能、ノウハウ、情熱」
例を挙げると、大学受験や音楽で成功するには、
上記の三つが必要で、もし失敗したらこの三つの内のどれかが足りなかった、という風に分析できる。
逆に成功するにはこの三つを元に計画すると良い。
一番重要なのが、情熱でノウハウはカネで買える、そして才能はやって見ないと分からないものだ。


https://www.youtube.com/watch?v=L6plCFShvq4
「戦略」に関する「前提」と「世界観」について|地政学者・奥山真司の「戦略の階層」徹底解説
(引用)
物事を階層で考える。
戦略と戦術
世界観、政策、大戦略、ここまでが戦略
軍事戦略、作戦、戦術、技術個々が戦術
例えば、中国人を知るには戦略がどうか、即ち世界観がどうか知らないと理解が出来ない。
理解が出来ないと、間違った対応をしてしまう。
中国人は南シナ海、台湾、沖縄を元々中国の領土だったので、取り返そうとしている。
つまり、正義の戦いなのだ。
こちらにしてみれば、侵略なのだが、これに対応するのに戦術クラスで対応してもダメだ。
戦略が違うから、戦術である話し合い路線がうまくいかないのは当然だ。
この様に物事は階層的に考える必要がある。
男女の関係も男女で世界観が違う。
お互い、相手の世界観がどうか、また、どの階層で付き合おうとしているのか、知って対応するとうまくゆく。
朝日新聞をはじめとするマスゴミは「日本人は悪人」という世界観から行動している。
階層に当てはめると、それが戦略で、新聞記事は戦術だ。
それを知れば新聞記事を読んで、逆にその意図するところが「日本罪悪論」「日本人貶め」であると推定できる。
戦略はフィクションで嘘だ、といえるのだ。
なぜなら、戦略は未来のことで、未来予想が戦略だからだ。
国家を見る場合も重要だ。
戦略と戦術は違う。
戦略は日本人が得意でない。
戦術は軍事戦略以下で、これは日本人が得意だ。
戦略と戦術の違い。
戦略は将軍が考えるもの、戦術は兵士が考えるもの。
将軍はルールを造り(戦略レベル)、兵士はそのルールを適用してプレイヤーとなる(戦術レベル)
将軍は軍事を考えるが実はこの上に政治家がいて、その関係は政治家が戦略、将軍は戦術レベルとなる。
戦略は見えないもの、例えばソフトウェア。戦術はよく見える具体的なもの。
日本人はものつくりは上手だが、ソフトウェアは苦手だ。
戦略は未来的な目に見えないものだから概念としては「嘘」だが、戦術は実体的なものだ。
だから日本人は戦略が苦手で、中国人は嘘が前提なので戦略がうまい。
中国人はプロパガンダが得意で、日本人はそれが苦手で、戦略レベルの真実から考えるからレベルで負ける。
戦略は長期的未来的なもの、戦略は短期的で、現実的に考える。
戦略は抽象的、戦術は具体的。
他国を攻撃して支配下に置くとき、戦略的に考えるなら和睦して利益だけ長い間搾取するようにする。
戦術レベルで考えると敵を殲滅して勝利を得る。
目標が戦略的に定まっていないと、勝利を得ても何の得にもならない。
戦略レベルで考えると、最終的な勝利の為には犠牲者が出るのはやむを得ない、戦術は全員救出が前提になる。
戦争と平和の関係で言えば、戦略は平和の間に行われ、戦術は戦争で発揮される。
戦略の階層をどう使うか。
人と話をするときは、今話しているのはどのレベルでの対話か、確認した方が良い。
対話の相手が世界観(戦略)を持っているか、戦術レベルだけの人か、見極めること。
例えば習近平は戦略的には優れていることを言うが、戦術的にはそれ程のことを言わない。
日本と真逆の関係にある。

(引用終)
https://www.youtube.com/watch?v=_6I7Fb1ql94
ネガティブな考えを払拭するたった3つの方法とは?|地政学者・奥山真司の「アメリカ通信」

 

(引用)
人間は遺伝子レベルで、未来に対し常にシュミュレーションするように出来ている。
そのお陰で生き残ることが出来たのだが、それが過去の出来事を対象としたら後悔となり、良くない。

また、将来のことをあまり過度に思い悩んでも殆ど意味がない。
人間の考えることの80%は意味のない妄想だ。
ネガティブな考えが心を支配したら、下記の三つの方法で対応する。
1.ネガティブな妄想が起きたら「今私はネガティブなことを考えている」と認め、それを止めようとしない。
2.他人だったらどうアドバイスするか、考える。ソクラテスの質問、「それがどうした」と自問してみる。
3.深呼吸する。座禅も呼吸法が大切だから通じるものがある。心身は一体で、体の方から心をコントロールする。

(引用終)
(私のコメント終)

1803-16-1222-3/24メルマガブログ転送ジェッディン・デデン

(優秀メルマガブログ紹介)

 


(私のコメント)

https://www.youtube.com/watch?v=PfBebI2oFp4
<軍歌・準国歌>海行かば
https://www.youtube.com/watch?v=lq4qs9YSpm0
巡検ラッパ~海行かば」 [歌:中川麻梨子] 海上自衛隊 横須賀音楽隊『日本海海戦111周年記念』

 

 


(私のコメント終)
(引用開始)

https://www.youtube.com/watch?v=UukiDpOTju0&list=RDUukiDpOTju0ジェッディン・デデン(Ceddin Deden)
https://www.youtube.com/watch?v=UukiDpOTju0
『ジェッディン・デデン Ceddin Deden』は、トルコ共和国(旧:オスマン帝国)における伝統的な軍楽「メフテル(Mehter)」の形式に基づいた楽曲。邦題は『祖先も祖父も』、『祖父も父も』などと表記される。
「メフテル」とは、オスマン帝国およびトルコ共和国で行われてきた伝統的な軍楽のことです。軍楽隊は「メフテルハーネ」と呼ばれます。

https://www.youtube.com/watch?v=ntVtN3g6ERM
CEDDİN DEDEN
メフテルは古代から続く西アジアの音楽の伝統と、中央アジアのテュルク民族の太鼓による軍楽を受け継ぎ、オスマン帝国常備軍(カプクル、イェニチェリ)において独自の発展を遂げた音楽の体系です。

オスマン軍は自軍の士気向上や威嚇のために、軍楽隊を連れて戦争に赴き、平時にも宮廷などの儀礼に用いました。

軍楽隊はヨーロッパへの遠征にも随行したことから、西欧の各宮廷にも知られることとなりました。モーツァルトベートーヴェンの「トルコ行進曲」は、メフテルの音楽を意識して作曲された楽曲です。

18世紀前半には、西欧諸国も軍楽隊を持つようになりましたが、その起源はメフテルを真似たことに始まり、現在のブラスバンドの楽器の基本編成にもメフテルの影響のなごりが見られると言われます。

歌詞の意味・日本語訳
1.
Ceddin deden, Neslin baban!
Ceddin deden, Neslin baban!
Hep kahraman Türk milleti!

祖先も 祖父も
祖先も 祖父も
勇猛なるトルコよ!

Orduların, pekçok zaman!
Vermiştiler dünyaya şan!
Orduların, pekçok zaman!
Vermiştiler dünyaya şan!

汝の軍隊は幾度となく
世界にその名を轟かす!
汝の軍隊は幾度となく
世界にその名を轟かす!

2.
Türk milleti, Türk milleti!
Türk milleti, Türk milleti!
Aşk ile sev hürriyeti!

トルコ国家よ トルコ国家よ
トルコ国家よ トルコ国家よ
汝の自由を享受せん!

Kahret vatan düşmanını!
Çeksin o mel-un zilleti.
Kahret vatan düşmanını!
Çeksin o mel-un zilleti.

祖国の敵を打ち負かし
忌わしき奴等に絶望を与えん!
祖国の敵を打ち負かし
忌わしき奴等に絶望を与えん!


https://www.youtube.com/watch?v=7a_KUdpjzxA

モーツァルト トルコ行進曲


(引用終了)