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働く人のためのケインズ革命

(見出し)

②無駄と必要の境界線

(私のコメント)

(要約)
1.道路、港湾、堤防、橋トンネル、学校など政府が行う事業である、公共投資はお金の入らない公共施設の為いかなる客観的な評価も困難です。
例えば、新しい道路を作ったどして、従来の道路の交通量は減るし、利便性の向上はあるが、それらを数値化することは困難です。
2.この為、マスゴミなどは公共投資を無駄だと散々叩いて減らすようにする。
だが、災害緊急時に使う為の道路を作ると普段は無駄で、贅沢だが日本のように災害が多い国には必須のものでもある。
この贅沢が国民の豊かさになる。
3.贅沢という概念は曖昧だ。
贅沢とは時代や地域によって相対的に評価される。
高級車などのように実用を越えた無駄なものを贅沢というが、だからと言ってそれらは使う人から見れば必要なものだ。
すなわち、自分たちには必要なものでも、自分と共感を持たない他人にとっては無駄でしかない。
(無駄を無くした生活をしたいなら刑務所の生活が良いのだろうが、その生活を皆がやったとして無駄を省いたから、と喜ぶだろうか。)
例えば、奴隷は支配者の主人によって医者にかかるのも無駄と断定される。
これは今の日本でも起きていることで、グローバリズムの思想からすると、日本人に対する社会福祉公共投資は無駄なことだ。
4.民間企業は収支が黒字になれば、無駄なことでないと判断できるが、普遍的な行政サービスは収支で測るものでない。
大概の行政サービスは赤字だから、そういう基準なら全部無駄ということになる。
(警察も消防も学校も皆無駄で市や町の行政サービスから削減して、それらをニーズ(必要)に合わせて有料にしたのがアメリカのゲート社会だ)
5.投資家階級(彼らの走狗であるマスゴミを含む)が好んで使う「贅沢」や「無駄」という言葉は、国民に対する「非共感」のサインです。
(投資家が利益を最大にしたければ、設備投資や人件費を徹底的に削り、生産されたものは独占するのが一番よい)
6.そもそも、先進国においては国家全体の生産の90%は贅沢品とか娯楽品で無駄なものです。
それらの生産力を総合した頂点に国家の安全保障すなわち、軍事がある。
国家国民を守る安全保障は絶対に必要で、必要だから無駄ではない。
物の性質に焦点を合わせても、贅沢品娯楽品と生存必需品の境界は簡単に分けられない。
これらの必需品から贅沢品までのあらゆるものを国民が手に入れることで、豊かな生活を生み出して行く。
豊かな生活が経済成長を促し、有効性の高い国防力を獲得してゆく。
7.無駄と必要の境界線はいまのところ存在しない。
境界線を決めなければならない、と意気込む必要もない。
その都度、政治的に決めるべきものだ。
政治だから天下りや利権はどうしても絡んでくるが、それらはチェックして細かく排除するしかない。
利権屋が暗躍してもそれらの奸智や怠惰は人間の本質であり、どんな制度下でも起きる。
ヒーローが全てを一挙に解決することなどない。
それらを断ち切ろうとすると、マルクス主義共産主義新自由主義構造改革になってより悲惨な結果になるから地道にやるしかない。

(要約終)

 

 


(私のコメント終)
(引用開始)


②無駄と必要の境界線

 

 公共投資の事業効果は、民間になぞらえて、投資額に対してどれほどの満足が得られたかの費用対効果とも呼ばれますが、民間企業の場合は、自分が利益を出せば良いのですから評価も簡単ですが、公的事業の場合は、お金の入らない公共施設ですから、いかなる客観的な評価も困難です。

 公共投資の事業効果の評価の困難さの一つに、例えば、新しい道路の交通量が増えても、全体の交通量が増えるわけではありませんから、従来から存在する道路の交通量を減らし、それによって従来の道路の利用度は下がるので、新しい道路の利用度だけでは測るわけには行かないといった、外部不経済の問題があります。

 また、新しく造られた道路だけで考えても、移動時間の短縮、周辺土地の有効利用の可能性の拡大、大規模災害の時の避難経路、などの利便性の向上は容易に想像することが出来るものの、これらを数値化するのは不可能です。

 よって、無知な国民とりわけマスコミは、公共投資を減らしたい扇動家の扇動によって、これらの公共投資を無駄な公共投資だとさんざんに叩きます。

 客観的な評価をすることが出来ないような道路は贅沢とも言えるでしょうが、その贅沢さが豊かさになります。緊急時に通行できる道路を持っておくことは贅沢ですが、同時に、災害の多い日本では必須のものです。そうすると、日本では、この贅沢さは、必ずしも贅沢とは言えず、日本であれば当然の設備だと言うことが出来ます。贅沢と言う概念はあいまいなのです。

 贅沢さは時代や地域によって相対的に評価されるべきものです。自分たちの生活を考えてみても、家族用にしては広大すぎる住居、移動する手段にしては豪華すぎる高級自動車など、本来の役割を超えた無駄な部分が多ければ多いほど贅沢だと言われるはずです。

 しかし、これらも含めて、贅沢なものはしばしば必要なものでもあります。病人のところに救急車が救助に向かうのは、後進国から見れば贅沢とも言えますが、先進国においては、救急車は必要なものだと考えられています。

 そこで、例えば、日本が他国の支配下にあり、支配者が日本人なんかに救急車などは贅沢だと思えば、救急車は無駄なものとして廃止されてしまいます。国際投資家と多国籍企業が支配者になれば、現代の世界でもこういうことが起こります。それはすでに起こっています。社会福祉公共投資が削られている事実がまさにそのことです。自分たちには必要なものでも、自分と共感を持たない他人にとっては無駄でしかないのです。
また、無駄と必要の境界線について、介護福祉の例を考えると、一人の高齢者に対して、一人の介護士が24時間付きっ切り介護することは理想です。これは、やろうと思えば出来ないことではありませんが、全国的に展開できずに、特定の者に対してだけ行った場合、それは贅沢だということになります。全国民に対して行われれば、必要なことだということになります。

 そのことから、公共投資の無駄と必要の境界線は、他の地域または他人とのバランスにあると言うことが出来ます。他の地域や他人にも同様の行政サービスが拡大して行くのなら、最初はどのように無駄と感じられたとしても、最後には無駄という評価にはなりません。

 自分自身にとって、公共投資はどれもこれも存在したほうが良く、その必要性を問われれば、無限に必要だと答えるに決まっていますが、他の地域や他人とのバランスがあって、始めて無駄か必要かの判断が出来ることになります。

 普遍的な行政サービスのひとつと考えられるものは、少なくとも、その成果は収支で量るべきものではありません。赤字の事業を否定すれば、大概の行政サービスは赤字ですから、行政サービス自体が贅沢であり、無駄だということになります。

 新自由主義者は、「全ての行政サービス自体が贅沢であり、無駄だ」という考え方に非常に近いところに居ます。なぜなら、新自由主義者の国民多数(特に低所得者貧困層)に対する共感度は、前出の侵略的な支配者の感情に近いところにあるからです。

 地方自治体などが住民票交付サービスを民営化していますが、これは、無駄だからと言う理由からではなく、公務員給与と民間賃金の格差を利用した経費節減のために行われています。

 公務員は、重い税に不満を持っている住民から地方公務員の給与の高さを批判されたときに、自分たちの給与を下げたくないし、だからと言って、一部の者だけの給与を下げることも出来ませんから、一部の部署を民間に委託して、その部署の経費を下げることにしたのです。いわば、トカゲの尻尾切りです。住民票交付サービスは決して無駄とは言えません。しかし、割と単純な作業であり民間の下請けに出しやすかったのです。

 水道事業やゴミ収集事業なども民営化される可能性がありますが、これらも無駄だからと言うのではなく、経費節減の理由から行われるでしょうし、財政均衡主義の下における自治体の経費節減が他の公務員給与に影響しないようにトカゲの尻尾切りとして行われるでしょう。民間に委託する場合は、請負料金を値切っても、地方公務員の給与には影響しないどころか、値切れば値切るほど地方公務員の給与が守られるので好都合なのです。

 民営化された場合、民間企業の株主は自分の利益しか考えずに、あれもこれも無駄だと言って、労働者の賃金を削り、消費者に対してはサービスを削ります。
しかし、国家全体としては、それなりのものは国民全体が生産しているはずですから、そんなに経費節減しなくても、国民全体に普通に所得再分配が出来るはずです。とりわけ、国防、警察、防災、社会保障、インフラなどの行政サービスを無駄だと言って削られては困ります。

 投資家階級が好んで使う「贅沢」や「無駄」という言葉は、国民に対する「非共感」のサインです。国民全体が生産している生産物を独占したいという気持ちの暴露なのです。

 しかし、そもそも、先進国においては、国家全体、国民全体の生産の90%は贅沢品とか娯楽とかのムダなものです。高級な自動車とか、ブランドもののグッズとか、テレビとか、旅行とか、そういったムダなものが欲しくて、食料、衣服、住宅などの最小限必要な生存物資を作る生産者が頑張ります。そして、最後に、その生産力を総合して、国家および国民を守る最新鋭の軍需品が生産されるのです。国家の安全保障は、あらゆる政治政策、あらゆる経済政策の頂点に位置します。

 国家や国民を守る安全保障は絶対に必要であり、その安全保障を支えるものとしては、防衛機器から個人用のインターネットにまで広がります。食料は、栄養と衛生と嗜好のバランスが幾重にも試行錯誤され、進歩し、兵士や国民生活を支えています。

 また、道路は、交通量の多い生活道路や産業道路から緊急避難道路まで、どこからどこまでが何に該当するかをキッチリと仕分けすることは出来ません。モノの性質に焦点を当ててみても、贅沢品や娯楽と生存の必需品の境界線は簡単に分かりません。

 これらの必需品から贅沢品までのあらゆるものを国民が手に入れることで、豊かな生活を生み出して行き、経済成長させることが可能となり、同時に、有効性の高い安全保障(国防力)を獲得して行くのです。

 天下り先になるとか、政治家と業者の利益になるとかの動機については腹が立ちます。その犯罪者たちを無慈悲に懲罰すべきです。だからと言って、事業そのものを止めるというのは、暴論であるし、頭が悪すぎます。それなら、国民に対する事業の大切さの検討はどうするのでしょうか。

 無駄と必要の明確な境界線は今のところ存在しません。しかし、その境界線を決めなければならないと、意気込む必要はありません。その都度、ゆっくりと、政治的に決めるべきです。どのような事業にも、天下りや利権が絡みます。そのことについては、個別に、小まめにチェックして行かなければなりません。そこに、市会議員や県会議員などの地方政治家の役割があるはずです。しばしば、地方政治家は、その役割のサボタージュが問題なのに、不可抗力を装い、事業そのものが悪いと言いたがります。

 地方政治家が無能であれば、選挙で議員を落とすしかありません。それでまた、その議員が当選するのであれば、国民が政治家の良い者と悪い者を選り分ける意志を持たなかったというだけの話なのです。地方政治家の質の悪さはすべて住民の責任です。

利権屋が暗躍しようとも、それらの奸知や怠惰は人間の本質であり、資本主義であろうと、共産主義であろうと、そしてまた、ケインズ主義であろうと、新自由主義であろうと、同じように起こります。ヒーローが全てを一挙に解決してしまうというようなマンガのような思考はやめるべきです。地道にやるしかありません。現実の世界では大体において、小泉純一郎氏、竹中平蔵氏、安倍晋三氏の例を上げれば判りやすいと思いますが、そのヒーロー自身が悪魔でした。

 市民運動や選挙を通じて行うこれらの不具合の解決方法は、特効薬の無いイタチゴッコになるかも知れませんが、それを断ち切ろうと思えば、マルクス主義共産主義)や新自由主義構造改革)になってしまい、より悲惨な選択となりますから、イタチゴッコであろうとも粘り強く続けて行くしかありません。

 

(引用終了)

(要約引用開始)
http://totb.hatenablog.com/entry/2018/04/19/065439
Think outside the box
MAKE JAPAN GREAT AGAIN
2018-04-19
貧国弱兵はコスパが良い


(前略)
結局のところ、日本が抱える多くの問題と同様に、日本の経済停滞に根本要因がある。「過去最大の防衛費」とはいいつつも、実態としては日本の相対的な退潮を示していると見ることもできるだろう。


(中略)

 

小泉首相の「米百俵」や民主党政権事業仕分け、あるいは「身を切る改革」を熱狂的に支持した国民が多かったことからも分かるように、日本人は自分たちの生活を豊かにするための支出であっても「無駄」と毛嫌いするようになっています。国防も無駄、防災も無駄、インフラストラクチャー整備も無駄、基礎研究も無駄、文化振興も無駄*2、公立病院も無駄*3、妻子持ちの男に年収600万円を払うことも無駄*4、あれも無駄、これも無駄、それも無駄、無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄という文化大革命のような一億集団ヒステリーです。*5

*5:財務省の緊縮政策は「無駄の削減」を求める民意に支えられているとも言えます。昔は戦争、今は緊縮政策を支持しているのが民意です。

赤の女王の台詞を借りれば、先進国であり続けるためには十分な投資(人的も含む)を続けなければなりません。しかし、それは無駄なので、コスパに敏感な日本人は投資を削って「衰退途上国」になるという選択をしたのです。

(後略)

 

(要約引用終了)