メルマガブログ転送憲法改正7人権

雑誌「明日へ選択」9月号から

(見出し)

国家悪玉論で人権を語るな。

(私のコメント)

日本には人権団体が沢山あるが、殆どサヨク陣営だ。
先日北朝鮮で政変があり、即決裁判で処刑されたが、あれに抗議した人権団体は皆無だった。
その数日前に法務省が数人の死刑囚に対し死刑執行したが,それに抗議した人権団体は沢山あった。
新聞も反対非難の基調で報道していた。
人権はこのように日本国家を攻撃し、その秩序を破壊しようとする彼らの武器として使われている。

在日朝鮮人は何かというと、「差別だー」と騒ぐ。
彼らはそれを日本人が何でも言うことを聞く呪文として使っている。
そして、日本人に対してこの呪文をいうと新聞などのサヨクが呼応し、よく効果を表す。
なぜ効果的かというと人権教育という戦後の洗脳教育を日本人は皆受けているからだ。
戦後の占領政策は日本人に人権というものを、あたかも唯一無二の絶対神のように崇めさせ、
信じこませた。

人権の悪口を言う人は今の日本には全くいない。
ガチガチの保守の人でも人権は大事だ、と言う。
人権なんてやめよう、などと言ったら蔑みや嫌悪感を持たれ、それこそ差別されるだろう。
人権反対の人間の人権は認められないのだ。

同和団体の糾弾会のように多数の人間による恐怖と暴力のつるしあげは、
そういった反応の過激なものだろう。

「いちご畑」というブログがある。
http://scarecrowstrawberryfield.com/

ブログ主はアメリカ在住の方でアメリカ社会のいろいろな状況を報告していて大変面白い。
このブログの21日付で書かれていたのだが、
敬虔なキリスト教徒と同性愛支持者が対立して、人気のあるテレビ番組が立ち往生している、という話だ。

これもアメリカの草の根の伝統的保守であるキリスト教徒と、
人権平等を宗教的教義とする同性愛支持者との闘いとなっている。
人権信奉者は理神論と言って人間の理性を神と信じる新興宗教の一員と見ればいい。
宗教は長い年月かけて蓄積された人間の生き方のノウハウが詰まっている。
そのノウハウは昔からいろいろな攻撃によって磨かれている。
とりあえずは宗教的な見解の方が正しいと思われる。

人権については長谷川三千子著「民主主義とは何なのか」にくわしい。
この本は人権至上主義の日本人の常識をぶっ飛ばすような内容で、
知的なスリルに富んだ面白い名著だ。
こういう本がどんどん出て来ると、人権思想も奥が深まってゆくだろう。
そういう意味で、人権を信仰するのでなく検討するためにこの記事を紹介するわけだ。

今の日本に人権の悪口を言う人はいない、と言ったが
それは人権という考え方は案外日本人古来の考え方からすると、おなじみで、
日本人的に解釈してしまっているから広まっているのかも知れない。

仏教の慈悲とか、論語の「仁」、 十七條憲法の「和」、思いやりと恩返しの関係など、
他人を尊重する考え方と重なってくる。

人権などと言う思想はたかだかこの300年余の前に起きてきた新興宗教のようなもので、
古来からの日本の思想からすると、そんなに有難たがるものでもないだろう。

むしろ人権は共産主義国家であるシナ、侵略弾圧されているチベットウイグルなどで有効なのだろうが、
日本の人権団体は一切それらに触れようとしないことが、
日本における彼らの人権というものがどんなものか、を示しているだろう。

下記に引用する論文にある通り、人権と言うのは革命を正当化する理論なので、
すでに革命が起きてしまったシナや北朝鮮は人権を使って攻撃する必要がない。
だから人権団体は抗議しないのだろう。

(私のコメント終)
(要約引用開始)

人権という言葉は、それが突き付けられると誰もが黙り込み思考停止してしまう、
神聖で侵すべからざる言葉となっている。
人権は社会の安寧や公の秩序よりも優先すると言う人権至上主義が今の日本の社会には蔓延している。
その背景にはいわゆる現行憲法の三原則の1つとされる「基本的人権」を絶対視する風潮が、
影を落としていると思われる。

自民党の改憲草案の人権規定に対する反対派の激しい拒絶反応はその一例と言って良い。
改正草案では人権について「公益及び公の秩序に反しない限り」と修正している。
これについて反対派の朝日新聞は

「私たちの人権を制限できる余地が生まれるということだ」
脱原発デモを阻止される」などと批判した。

しかし公の秩序と言う言葉は日本が批准している国際人権規約にも使われており、
これらの批判はデマ宣伝と言うしかない。
こうした言論状況は基本的人権が神聖不可侵のドグマ(教条)と化していることを物語る。

まずそもそも基本的人権とは何かを簡単に確認しておこう。
憲法学の通説では基本的人権を、
「人がただ人間であるという事のみに基づいて当然に持っている権利」
と定義してきた。
ここから人権は天賦の権利とか前国家的な権利、法律をもってしても侵しえない権利、
などとと言われている。

では人権のルーツは何か。
(その経緯を述べると1冊の本になってしまうので、ここでは端折ってしまう。
詳しくは上記長谷川三千子先生の本を読んで下さい。)

特に憲法学者が異口同音に強調するのはアメリカ独立戦争フランス革命に際して作られた政治文書、
すなわちアメリカ独立宣言とフランス人権宣言だ。
アメリカ独立宣言は「すべての人は平等に作られ、造物主によって
一定の奪いがたい天賦の権利を付与されている」としている。

一方フランス人権宣言は「人は自由かつ権利において平等なものとして出生しかつ生存する」
と宣言している。
つまり2つの宣言はともに前国家的に存在する権利として人権を認めている。
これらの理念は日本国憲法の13条や97条に反映している。

人権のルーツはここにあると言って良いだろう。

ではこうして登場してきた人権が前提に据える人間や社会の姿とはいかなるものか。
憲法学者は次のように解説する。

「近代人権論は封建的な身分制社会から脱するために、
身分その他の属性を排除した抽象的人間像を前提に…」
「そこではギルドの解体等中間団体の排除によってアトム的な個人が国家と対峙すると言う、
国家と個人の2極対立構図が前提とされてきた。」

言い換えれば歴史と断絶し祖先を持たない抽象的でアトム的な個人と、
そしてその個人と国家の対立の構図こそが、人権を特徴づける前提とされるわけである。

(人権はフランス革命と革命と切っても切れない関係にあり、
革命遂行のための理論の1つとして出発しているのだ。
フランスで勉強したポルポトが大虐殺をしたのは人権が革命の道具で、
大虐殺を招くものだ、という典型例だ。
チベットで言えば、共産党的人権思想があるシナ共産党が虐殺を行い、
人権思想がない侵略前のチベットは虐殺がなかった。)

こうした歴史的背景を踏まえ護憲派は、人権について
「西欧の人々が思想と革命によって築いた叡智」
と礼賛してきた。(憲法97条も同じ意味のことが書いてある。)
しかしそもそも前国家的な自然状態において存在するとされる人権とは、
1つの特殊なイデオロギーであって、決して叡智などと呼べるものではない。

実際今日広く知られているように、歴史とも神とも決別したフランス人権宣言の下で
繰り広げられた現実は、決して賞賛できるようなものではなかった。
「国民議会は反革命の陰謀を探るための委員会を設置して、郵便物の開封、
正規の手続きを踏むことなしに拘禁、逮捕、移動の制限を行った。」
(密告を奨励し、夜間の家宅捜索を行い、大量処刑を行う恐怖政治を敷いた。)

(中略)

フランス人権宣言には立派なことがたくさん書かれてはいたがそれらは少しも守られなかった。

フランス革命がいかにひどいものだったかを示す本がたくさんあるが
藤本ひとみ著「パンドラの娘」という本にフランス革命期の大量虐殺のことが書かれている。
革命軍がいかに大虐殺を繰り返したか特にヴァンデ地方の50万人虐殺などが有名だ。)

アメリカ独立宣言はアメリカ植民地がイギリス本国との関係を
断ち切るために強調した論理である。
自分たちを持っている権利が本国古来の権利でなく、別の意味づけをする必要があり
宗教的権威を持ち出して、造物主によって付与された権利(人権)だとしたものに過ぎない。

(だから、異教徒であるインディアンには適用されずどんどん殺した。
チェロキー族はキリスト教に改宗したが全て絶滅させられた。)

こうした歴史の事実は人権の本質が、護憲派がいうような叡智や普遍の原理などと称するものでなく、
ある便宜的なイデオロギーに過ぎなかったことを示しているといえよう。

そこで次に問い直されるべきは人権が前提とする人間像、
つまり歴史と断絶し先祖や共同体から切り離されたアトム的な個人とも称される人間観であろう。
護憲学者の樋口陽一氏は人権が前提とする個人が「フィクションで実在しないことを認め」ている。

一切の属性や束縛から解放された個人は、義務や公共の観念の担い手たり得ず、
こうした虚妄の人間観こそは個人の欲望を
無限に肥大化させる人権至上主義の土壌となっていると考えられる。

(中略)

こういう実在しない個人について、コミュニタリアニズムで知られるマイケルサンデルが指摘している。
「一切の共同体の束縛から解放された負荷なき自己は、道徳的、政治的な責務を引き受けることができず、
リベラルが擁護する諸権利を存続させるためにも
共同体についてのより強力な考え方が必要だ」
と言っている。

言い換えれば権利と義務とは本来不可分のものであるということだろう。
憲法学者佐伯市は次のように述べている。
「歴史的に主張されてきた人権論の主だったものを見てくると多くの場合、
権利とともに道徳的義務がそこに相対置して置かれてきた。」

その典型は自然権の思想を広めた張本人たるジョン・ロックである
人間は全て神の僕(しもべ)であって人間に自然法の遵守を求めている。

(中略)

このように西洋起源の人権論には義務論が伴っていた。
宗教的道徳的な義務は権利の自己主張に対するブレーキの役割を果たすものであろう。
いいかえれば、人権には制約の原理が不可欠だと言うことである。
戦後憲法学の人権論はこうした義務論や制約の原理を顧みない。

そもそも人間は歴史も共同体もないところに個人として生存することはできない。
例えば人格を築くためにも言葉が必要であり、
その言葉によって継承されてきた文化や価値観を身に付けて初めて人格は築かれる。
つまり先祖や民族や国家あっての個人なのだ。
人権至上主義から決別するには、こうした現実に立脚した当たり前の人間観から
権利を捉え直すことが必要だ。

さらに問い直されるべきは、戦後憲法学の人権論が前提としてきた国家観である。
現行憲法は一般的に社会契約説に立脚すると説明されている。
社会契約説は、国家というものは個々人の生命や財産、自由などを守るために設立された、
との考え方であり、西欧の革命を正当化するために利用された理屈である。

しかし先に見たように戦後憲法学は人権を国家との対立構図において捉えている。
ここに横たわるのは単なる社会契約説的な国家観では無い。
国家は暴君のように国民の自由や権利を踏みにじるものだとする、
ある種の国家悪玉論だと言える。

社会を支配者と非支配者に二分し、支配者に与する(くみする)ものを権力者と称し、
打倒の対象とした19世紀的な階級国家の片鱗をうかがわせる。
しかし20世紀以降の福祉国家思想の下では国民の福祉を担うのは国家である。

佐伯氏は
自然権論のもつ革命論的な視点からのみ、国家と人権の関係を語る時代は過ぎたのではないか」
と言っている。
福祉のみならず人権を最終的に保証するのは国家である。
国家からの自由が人権の本質ではあるが、国家による自由も否定できない事実だ。
例えば自国が他国に侵略されれば、国民は自由を維持できない。
国民の自由を守るのは国家である。

護憲派が人権のルーツと仰ぐアメリカ独立宣言も、フランス人権宣言も安全の規定があり、
安全に対する権利も当然基本的人権のうちだ、と言えるのだ。
実際国家が安全と独立を失えばいかなる権利も画餅に帰する。
だからこそ世界各国の憲法は人権を掲げる一方国防の義務も定めているのである。
国民の権利や自由を守るためには国家に対する国民の献身的努力、自由のための闘いが求められているのである。

しかし社会契約説に基づく国家観は元より、人権と国家を対立的に捉える旧来の人権論では
国防の義務は説明できない。
人権の土台である国家の存続の為には国家悪玉論を克服し、我が国の歴史に根ざした真っ当な国家観を
回復することが不可欠なのである。

 (要約引用終了)