1605-18-951-5/21本要約さらば資本主義

本の紹介

佐伯啓思著「さらば資本主義」

(要約して引用開始)

第8章アメリカ経済学の傲慢

・世界中で有名となったピケティ著「21世紀の資本」という本にアメリカ経済学に対する厳しい批判が書かれています。
彼は「経済学と言う学問分野は数学や極めてイデオロギー偏向を伴った憶測などに対するガキっぽい情熱を克服できないでいる。
そのために歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。
経済学者たちは自分たちの内輪でしか興味を持たれないようなどうでもいい数学問題にばかり没頭している。
この数学の偏執狂ぶりは科学っぽく見せるためにはお手軽な方法だ」と言っている。

・アメリカでは既に50年代から60年代にかけて経済学の数学化が急激に進行し、 60年代末から70年代にかけて1つのピークに達していたのです。
なぜ60年代のアメリカでかくも急激に経済学の数学化が生じたのか、その理由は簡単です。
当時はソ連社会主義マルクス主義理論とアメリカ自由主義経済体制との戦いの真っ最中だった。
アメリカの経済学者たちはマルクス主義のことを単なるイデオロギーである、マルクスの個人的な経験と妄想の産物にすぎないと主張した。
そしてアメリカの自由主義市場経済体制は理論的に正しいことが論証できる、これを支える市場理論は科学であってイデオロギーでは無い、と言った。

市場理論が科学であるためにはそれらを全て数字で表現する必要があった。
統計数字によって検証するから、マルクス主義より理論的に正しいという証拠は数学で表現されている、ということだった。

・経済学を数学で語ろうとしたときどういう結果になったか。
経済的な問題を研究するのでなくどうやってうまく数学で表現するかという技法が重要になってくる。
そうすると経済的な問題の中で数値になじまない要素をドンドン排除していくことになる。
例えば企業の社会的イメージ、従業員のやる気、経営者の能力、信頼関係など数学的に表現できないとドンドン排除される。
政治の動きなども経済には重要な影響を与えるが、これも排除される。
また同じ先進資本主義国でもそれぞれの国柄によって違う経済構造を持っているが、こういう歴史文化から市場経済だけ切り離して論じることはできない。
だがそういう事は経済学の中心による経済理論には通用しない。
こういう現実と遊離した経済学の状況に「もっと総合的に考えるべきだ」と言う意見や試みもその後生まれてきた。

・そもそも経済学は科学なのか、という点がこういった経緯から問題となっていった。
だがそれに対する経済学者の答えは「経済学は科学である、なぜなら経済学は教科書になっているからだ」ということだった。
つまり教科書と言うのは経済学を標準化してしまった、ということだ。
アメリカ経済学の教科書を学習したものは当然それを科学的真理と考える。
そうすると例えばアメリカ留学して日本へ戻ってきた若い日本人学者は日本の経済の現実を見て教科書との違いに改めて驚く。
会社に対する忠誠心、終身雇用、年功序列賃金、政府の行政指導、等々すべて教科書に書いてありません。
そこで彼らは日本型経済をアメリカの教科書を読みながら批判する。
教科書が正しく現実は間違っている、なぜなら教科書は科学的真理だからだ、という理屈だ。
しかし一般に理論と現実が食い違ったときは理論が間違っていると考えるのが科学の常識だ。
安倍政権が行っている諸悪の根源であるグローバリズム構造改革財政均衡主義というのはそういうものなのだ。
だが、言うまでもなく教科書になっているから科学だ、という事はありえないことなのだ。

その教科書と称するものが学会で権威を持ち、その周りに人々が集まりそれを標準的なものとしてしまっている。
つまり真理性によると言うより社会的心理現象にすぎないのだ。
そしてそれが高度な数学で武装されて科学的な装いをたっぷりしていたおかげで教科書として権威が高まったのだ。

・大事な事を先に言ってしまえば、我々はどのような生き方や社会を善きものとするか、という価値の選択が重要なのだ。
価値の選択だから思想が必要であり重要になる。
そして思想は科学では無い。
そもそも社会を対象とする学問は決して科学などにはなりません。
経済学は一種の偽装科学です。
経済学の持つ科学的な装いが経済学を特別な地位に持ち上げており、 1つの価値を社会に押し付けている。
今日世界中でアメリカ流の市場中心主義の経済学が伝播しつつある。
これをグローバルスタンダードというが、これをわれわれは「社会を善きものとする」ために選択した事は無い。
思想をぶつけ合い議論して民主主義的な方法で特定の価値判断をした訳では無い。
本来はそうして決めるべきものなのに、勉強エリートを介して強制的に教科書に従わせられてしまっている。


(引用終了)
(私のコメント)
現在の日本の現状は上記のような偽装科学であるアメリカ経済学に支配されている。
安倍政権は日本型経済をぶち壊す構造改革グローバリズムなどの価値観を正しいものとして日本に押し付けようとしている。
本来なら一般大衆がそれを自分たちの幸せのために議論して選択した結果政府が実行すべきものだが、そんな民主的な手続きはない。

むかしChristian scienceというキリスト教を科学で偽装した布教活動があった。
今の幸福の科学も科学と称することによって真理を偽装している。
実際にやってることは恐山のイタコと同じようなことをやっているのだが、それを科学と称している。
経済学もそういう類のものでしかない、ということだ。
経済学はピケティと言う人が言うように歴史学社会学、人類学、政治学、心理学等々の学問と連携して進歩して行くべきものだ。
経済という言葉の意味は「経世済民」つまり世の中をどうしたら豊かで幸せにできるか、ということを研究する学問だ。
そして今の経済学は経済学の教科書通りにすればみんなが幸せになるといっている。
しかし実際にやっで見ても、うまくいかないなら教科書を書きなおさなければならない。
だがそうすると今までせっかくそれらを勉強してきた秀才エリートが失業してしまうので悪あがきしているのだ。
前回「経済学者の嘘」という本を紹介したが、今秀才エリートたちは現実の前に生き残りのために理屈をこねて悪あがきしている。
そしてそのために国民は苦労させられている。

さて、ここで視点を変えて、前回の本の内容と上記の記事を突き合わせてみよう。

(1.世の中のことを前提条件を設定して理論化した。)

自由主義市場経済を理論化するために数学を使った。
数学を使ったためにいろいろな経済現象を数字で表現できるものだけに絞り込んでしまう。
だがそういったモデルを前提としている理論としてみれば、それは正しいのだ。
ここまでは間違っていない。

(2.約束事の上で正しいのにその約束事を忘れてしまって現実の世の中でも正しい、と考えてしまう。)

ここから間違ってくる。
経済社会のごく一部を切り取ったモデルを対象として理論化したものを一般的な標準的なものとして教科書にしてしまった。
そして教科書だから普遍的に正しい、ということになった。
そこで考え方が逆転してしまったのだ。
ここから嘘が始まる。

(3.そしてモデルから生まれた理論を勉強する経済学者は理論が正しく、現実が間違っている、という信念を持つ。)

アメリカ帰りの秀才エリートは自分たちの苦労して勉強してきたことを当然正しいと考える。
これは江戸時代の朱子学などの儒学を勉強した勉強秀才と同じだ。
江戸幕府が瓦解した遠因になっている。
建武の中興の中心人物である後醍醐天皇も同じだ。
彼は当時中国から輸入された朱子学を1番早く勉強した人で、この教科書の理論に従って世の中を変えようとした。
例えば日本全国の土地の所有権をすべて天皇が決めるというような現実離れしたことをやろうとした。
足利尊氏天皇の革命に苦しんだ民衆の支持でそれをひっくり返し室町幕府を成立させた。
今の日本もこのままではおそらく民衆のイカリで経済理論は理屈抜きでひっくり返っされるだろう。

(4.そして理論から説明できない現状を存在しないものと否認する、というような風潮が経済学者の中に生まれた。)

この結果今日本の庶民の生活はボロボロになっている。
アメリカ帰りの主流派経済学者はそれを自己責任と言って切り捨てている。
また、間違った理論である財政均衡主義を庶民に押し付けるために消費税などの大増税をしようとしている。
この結果起きる庶民の苦しみや日本社会の衰退はやむを得ないものとして無視される。

(5.重要なのはそういう現状否認型の経済理論に政治家や経営者などが便乗して自分たちの利益を増大させようとすることだ。)

竹中平蔵を例にとれば彼は政府内で日本型雇用形態を破壊して非正規雇用を増やし、その上で人材派遣業の会社の社長になっている。
ユニクログローバリズムとデフレを利用して大会社になった。
このように間違った経済理論を利用して国民の苦しみを尻目に大儲けしている奴等が居る。

(6.自らの出世のために現状否認型経済理論(理想論的だから高尚に見える)をぶちあげる経済学者が出る。)

日銀の岩田副総裁は学者時代岩田理論と称し「日銀が通貨をたくさん発行すれば国民はインフレになると思って金を使うから物価が上昇しインフレになる」
と主張した。
この理論が安倍政権で採用され、彼は日銀副総裁に出世した。
しかし実際にやってみるといくら通貨を発行してもインフレにならない。
これは当たり前のことで各人の財布の中身が空っぽでは使いたくても使えないのだ。
彼は副総裁に就任した時私の理論で2年以内に2%の物価上昇率になるはずだ。ならなければ辞任する、といった。
しかし3年たっても物価は上がらないが、いろいろごまかして辞任しない。


以上結論としては、
「政治であれ経済であれ、「現実がちゃんと見えているかどうか」を問うことは、きわめて重要な課題なのです。」
ということになる。

(私のコメント終)