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ナンミンウォッチ

(見出し)
ナンミンウォッチ

(私のコメント)

このブログは少し長いので、適当に(中略)を入れました。
意味が分からないようなら原文を読んでください。
人権と難民の話だが、人権という権利はどんなものか。
サヨク的な考え方では、何かこれが崇高な理想のようで、皆が崇め奉るべき神のような存在にしている。
学校教育やマスゴミの記事には、批判禁止の宗教的教条(ドグマ)として登場することもある。
これをまず破壊して幽霊の主体を見極めないといけない。
そういう風に皆を人権の前でひれ伏して思考停止にして得をする奴らが居て、人権を利用するのだ。
特に今の新憲法では、人権が強調され、戦前は天皇の権威、戦後は人権の権威で成り立つといっていいくらいだ。
今の憲法は周知のとおり、アメリカが作って日本に押しつけたものだが、人権も始まりはアメリカの独立宣言だ。
アメリカが押しつけた憲法だから、自分たちの崇めるご神体を憲法の中に入れたのだろう。

ウィキを見ると、
「「天賦の権利」について実定化した最初の人権宣言は1776年のバージニア権利章典である」

「アメリカで結実した自然法思想はフランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった[14]。フランス人権宣言では人は生まれながらにして自由かつ平等であることを前提に、人身の自由、言論・出版の自由、財産権、抵抗権などの権利を列挙するとともに、同時に国民主権や権力分立の原則を不可分の原理と定めている[14]。」

前者はアメリカがイギリスから独立するとき、イギリスの権利より優先される権利がある、とイギリスに対して別の権利を勝手に作り出したものだ。
つまり、イギリスの権利を否定するために新しい権利を作ったのだ。
そして、その権利は神様から人に与えられたもの、という理屈だ。
この神様というのはキリスト教の神様で、日本では憲法学者自然権と言っているが、それは嘘だ。
日本人は自然崇拝があるからそれで納得するが、自然というものにそんな権利を与える機能はない。
その証拠に自然に向かって俺を生存させろ、と言っても餓死するかここえ死ぬだろう。
権利というのはご承知の通り、「他を自分の思う通り動かせる」という力だ。
自然に備わる権利と言っても自然は何もしない。

このように自然からもらった権利、あるいはアメリカで言えばキリスト教造物主からもらった権利という理屈でイギリス人の権利を奪ったのだ。
フランス革命なら既得権益者である、宗教勢力、貴族王様の政府に対してそれから権利を奪うために使った理屈だ。
そういうものだから、基本的に既存の秩序や政治体制でオーソライズされた権利関係を破壊するのに都合がいい考え方なのだ。
考え方、と言っても一種の信仰で、そう信じて次に暴力でそれを押し通したに過ぎないものだ。
だから日本の憲法学者というのは一種の新興宗教の司祭様、イスラムの法学者と同じようなものだ。
だだし、人権も奴隷の開放や強権的な独裁政治では不正に対する攻撃力として効果がある。
下記のブログがいうように人権は相手のあることで、それをサヨクはあいまいにごまかすから注意が必要だ。
声高に人権を叫ぶ人が居たら、誰に対して言っているのか、誰を動かしたいのか、その結果得る利益は正当なものか、見極めた方が良いだろう。

(私のコメント終)

 

(引用開始)
(前略)

それで、アムネスティのページを覗いてみると「人権ってなに?」と題してこんなことが書いてありました。

「性別、国籍、年齢をとわず、この世に生きるすべての人びとは、生まれながらにして、かけがえのない価値を持っています。」

「同時に、一人ひとりがみな、『人間らしく生きる権利』を持っています。この権利は、平等であり、決して奪うことはできません。」

「そして、この権利を社会全体で守り、尊重することによって、より多くの人びとが平和に、そして自由に暮らせる社会が築かれるのです。」

なるほど、たしかにその通りです。全く同意します。

しかし、ひとつだけ疑問があります。

ここに出てくる「社会」ってなんでしょう?


(中略)
それで、産業も乏しく政府も腐敗し教育制度もなく貧困と疫病と飢餓に苛まれた別の社会から、一握りの金を密航業者に託した不法移民がやってくるとします。旅に次ぐ旅を重ねてとうとう前者の社会にやってきました。

「人は誰でも人間らしく生きる権利を持っている」。「だから受け入れなさい」。

こういわれてしまったら、やはり誰も何の反論もできません。

受入を否定したら、「人間らしく生きる権利」を否定してしまうことになるからです。

(中略)

やがて押し寄せた人たちの数は100万人を超えたとします。

社会保障費用は莫大なものになり、医療と教育のシステムはいたるところでパンクし、社会規範の違いから衝突が頻発し、移民の居住地周辺からは次々と地元民が逃げ出します。

「人は誰でも人間らしく生きる権利を持っている」。「だから受け入れなさい」。

それでも、こういわれてしまったら、ほんとうに、まったく、誰も何の反論もできないのです。

受入を否定したら、「人間らしく生きる権利」を否定してしまうことになるからです。

でもなにかがおかしい。なんでこんなことになるんでしょう?

そもそも権利を「保証」してやる責任を負う主体は何なのかを特定していないからです。

だれかがその責任を負う主体にならないかぎり、ただ「権利がある、権利がある」と言い続けたって無理です。

ところがその誰かが特定されていないがゆえに、権利を要求する側がその主体を恣意的に決定できるというどうしょうもない非対象性が生まれている。

(中略)

だから、「この世に生きるすべての人びとは」「一人ひとりがみな、『人間らしく生きる権利』を持っています」「そして、この権利を社会全体で守り・・・」とあるのは本当はおかしいのです。

等式がまるで成り立っていません。

だって、権利を主張する側は70億人もいるのに、その権利を保証するほうは「社会」たったのひとつぽっちだからです。

「全体」だろうがなんだろうが、一つの社会が養える人間の数なんてたかが知れてるからです。

であるからして、「日本国政府」は「日本国籍を有する者に対して」責任を負う、とかいった、きちん範囲を定めた具体的な言葉を入れておかないと本来はだめなのです。

そうでないととてもとても恐ろしいことになってしまうのです。

「人は誰でも人間らしく生きる権利を持っている」。

それがこんなことになります。

「従って、世界中70億のあらゆる人間は誰でも自分の好みの高福祉国を選び、そこに乗り込んでいって居座り『人間らしい生活を与えろ』と要求する権利を持っている」

ひとつの社会にすべての人類に対する責任を負わせるのは無理であるはずなのに、結局は責任を負うのは余力のありそうないずれかの個別の「社会」になります。

つまり、少しでも財政的余力のある国は、誰であれそこに入国した者に、国民の生活レベルと同程度の福祉を一生涯与えつづける義務がある、ということになってしまいます。

貧困が蔓延する社会、内戦ばかりやっている社会はそもそも能力がないから放っておくしかない。

もう、これをありていに言うなら「発展途上国の人間は自分がどこの先進国に住むかを自由に決定でき、いったん辿りつかれてしまったが最後先進国にはそれを拒絶する権利はない」ということです。

たまたま通りがかって相手と目が合ったが最後、それこそ墓場まで面倒を見なければいけないというわけです。

それでだんだん財政が圧迫され、破たん状態が近づくと、「不公平だ」「割り当てを決めよう」ということになり、他の余力がありそうな国に視線が向けられ、「おい、お前のとこはどうして受け入れないんだ」という話が始まります。

そうしている間にも、噂を聞きつけた人たちが続々と詰めかけてきます。

財政圧迫と社会システムの破たんはどんどん広範囲に広がっていきます。

だから、この概念を追求していくと、本当に本当に恐ろしいことになるのです。

「人は誰でも人間らしく生きる権利を持っている」。「だから受け入れなさい」。

難民・移民問題に懸念を持つ人は、筆者含めてですが、この、馬鹿げているようでいて絶大な破壊力をもつ議論に対するカウンター・アーギュメントを考えていかないといけないと思います。

 

(引用終了)