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働く人のケインズ革命

(見出し)
ケインズ社会主義 


(引用開始)

現代の世界では社会主義は否定されていますが、社会主義は、平等を目指す者たちにとって人類の理想だったはずです。
しかし、世界の労働者たちには、マルクス主義の敗北があたかも社会主義全体の敗北であるかのように受け止められ、
労働者自身でさえ自分たちの権利を主張することが出来なくなったと思っているかのようです。


 しかし、これは大きな間違いです。マルクス主義は、社会主義を実現する方法論として、
経済学的な間違いを犯していたのであり、社会主義的な平等の理想が間違っていたわけではありません。
むしろ、資本主義の完全否定という目標の立て方において、マルクス主義は社会主義の異端というべきものでした。
むしろ、マルクス主義は、その経済学的な間違いによって、社会主義運動の顔に泥を塗ったのです。

 マルクス以前の社会主義は、資本主義の修正としての社会主義を提唱していたはずです。
つまり、所得再分配を目的とする社会政策や、そういった方向性を持つ運動全体を社会主義と呼んでいたということです。
19世紀の社会改革運動は、生活改善運動などの物質的な側面だけでなく、理想社会の建設という主題を含む精神運動でもあり、同じ主題を持つ精神運動であった幅広い宗教団体と当初から密接な関係を持っていました。

 そうした運動では、資本主義を滅ぼすことは目的とされていなくて、資本主義下において、経済活動がもたらす格差や貧困化を修正することの方が目的とされていたのです。つまり、社会主義の出自から見れば、資本主義と社会主義が対立しているのではなく、資本主義の中で、小さな政府を主張する伝統的な自由主義と、大きな政府を主張する伝統的な社会主義が対立しているのです。そして、伝統的な社会主義から分化したミュータントの共産主義が資本主義と対立したのです。

 ジョン・メイナード・ケインズの提唱したケインズ経済学は、国家による経済への介入など社会主義的要素を含んでいるため、それに反対する新自由主義者からは社会主義であるとして批判されています。つまり、ケインズ主義に対して、今日、ミュータントの共産主義の濡れ衣を着せて批判するという手口が使われているのです。

 なお、ケインズ主義と最も敵対するのは、他ならないマルクス経済学なのです。
マルクス経済学の立場からは、国家独占資本主義であるという批判がなされています。

 ケインズは、社会保障福祉、医療を充実拡大させるだけでなく、国の重要産業の国有化の提案も行っています。
ケインズ主義は、資本主義の中で社会主義の長所を取り入れ、税制や社会保障制度でしっかり所得再分配のシステムを構築し、なお、国民が生きていくための普遍的な社会資本(原子力発電、電気・水道・ガス等のエネルギー、山林・河川、公共交通機関、通信、教育機関、港湾、空港など国家の安全保障の基幹となる部門)を国民の代表部である国家機関が保有し、先進的な文明や文化の建設については国民の自由な経済活動に委ねるという社会を想定していました。

 国民が保有すべきものは、国民生活に欠かせないインフラですから、誰がやってもリスクなしで儲かります。
誰がやっても良いようなものを、民営化して特定の者に儲けさせ、わざわざ格差を増大させる必要はありませんから、公営でやるべきなのです。民営化しなければ、サービスの質が上がらないというのは、最初の口実だけで、民営化されれば、必ず、売上の増大や経費の縮小を企てますから、結局は、国民は巨大資本から搾取されるだけになります。このような結果は最初から明らかなのです。

 公営化すれば、例えば旧国鉄のように、職員が怠け者になり、赤字を垂れ流し、国民に迷惑をかけるという者もいますが、それは、政治家がヘナチョコであると言っているにすぎません。政治家が無能だから民営化するというのでは、本末転倒、支離滅裂であり、解決方法として間違っています。

 国の重要産業が国有化された場合、大きな政府となり、公務員数は増大しますが、ほとんどが現業として生産やサービスに携わることになります。その最高責任者は政治家であり、政治家の責任がより一層重要に成ります。そして、その大きな政府は国民の無尽蔵とも言える生産力に支えられます。

 原子力発電所の事故は、防災への投資を節約したことによるものであり、民間経営だから起ったのです。
このような誤りを二度と犯さないようにするためにも、原子力発電、電気・水道・ガス等のエネルギー部門は、採算性よりも国民の安全性を重視する国家に経営を任せるべきです。

 ケインズ主義は社会主義であると共に、国家の計画や裁量を重視するため、必然として、誤解を恐れずにいえば、重厚な国家主義になります。その概要は今述べた通りです。私たちは、国家主義全体主義を混同することなく、国民を守るものは国家しか無いという冷厳な事実を見据えるべきです。

 そもそも、無制限な自由主義、民主主義、平等主義は存在しません。
自由主義、民主主義、平等主義は人類の理想ですが、相互に、ルールによって制限されなければ共倒れになってしまいます。
それらのルール作りを行う役割は国家にしかありません。

 無制限な自由主義は他人の自由を侵害することで人権と平等を侵し、無制限な民主主義と平等主義は個人の自由を拘束し、その発展を妨害します。自由主義、民主主義、平等主義は相互に無慈悲な暴力的側面を持っており、相互になんらかの牽制が行われなければならないのです。

 無政府主義の一派である新自由主義は、無制限な自由主義、そして無制限な自由貿易を求めています。
そして、まさに、民主主義と平等主義を侵そうとしています。

 したがって、現代、世界が足並みを揃えるかのように向かいつつある無制限な自由主義は、民主主義と平等主義によって反撃されなければなりません。その民主主義と平等主義による反撃が、社会主義的な社会政策であり、所得再分配政策なのです。念のために言えば、その社会主義的政策または所得再分配政策をどのように実現するかが本ブログの一貫したテーマです。

 現在の日本では、自民党民主党維新の党、次世代の党はの多くの政治家や経済学者も、政府が無駄遣いをやめ、民間の経済活動に関する規制緩和を行い、成長部門の成長を支援すれば、経済が成長し、トリクルダウンによって低所得者層や貧困層に富が再分配されると言っています。社民党も無知から消費税廃止にまでは踏み込んでいません。その代わりに、太陽光や風力発電の固定価格買取制度、消費税維持など、分けの判らないことを言っています。

 これらの政治家の経済のメカニズムは逆立ちしており、まず、富裕層が稼げば、経済成長しパイが増えるので、そのパイを分配することで、低所得者層や貧困層の増大に対する対策は経済成長で全て解決すると言っているのです。しかし、富裕層の溜め込んだお金が低所得者層や貧困層に零れ落ちることはありません。

 しかし、こうした世迷いごとが流行する前までの日本は、税制、資産制度、金融制度、社会保障制度が低所得者層への所得再分配のシステムとして機能していたのであり、まず富裕層に儲けさせるべきだという考えの者はいませんでした。そうした考えが生まれてきたのは最近のことなのです。

 それはバブル崩壊後、橋本龍太郎の金融ビックバンのころから始まり、森内閣、小泉改革を経て、金儲けは正義だという新しい道徳が国民に刷り込まれてきたのです。

 そして、現在、まさに、金儲けは正義だという新しい道徳らによって、所得再分配のシステムが壊されていることが重大な問題なのです。新自由主義は、そのことに触れることを極力回避し、壊されたシステムをそのままにしておいて、あれこれの議論をしたがっています。

 金融政策や財政政策の駆け引きばかりやっている他方で、低所得者への重課税、間接金融の破壊、社会保障のなし崩しを行っていたのでは、どのような金融政策や財政政策を行っても、焼け石に水です。

 1994年に固定資産税の大幅増税を行った後、2003年から三位一体改革が行われました。
三位一体改革によって、年間あたり国庫補助負担金4兆円、地方交付税関連5兆円が削られ、見返りに3兆円が自治体に税源移譲されましたが、地方財源は差し引き毎年約6兆円が削られてしまいました。その差額6兆円は固定資産税や地方住民の負担の増加によって補われています。つまりは、その分、地方から回収されるお金が増え、その増えた負担は全て地方の住民の負担になったわけです。

 また、消費税の存在によって、赤字経営の中小企業や労働者に課税が拡大しています。
麻生太郎氏は、消費税増税の理由として課税ベースを広げるためとか言っていますが、明らかに赤字企業や労働者などの、担税力の無いところに課税ベースを広げておいて、何を言っているのやらです。課税ベースを広げるとは笑わせます。赤字企業や労働者に対する無慈悲な搾取にすぎません。

 赤字企業や労働者にさらに負担を負わせたのでは、所得再分配はあり得ないし、経済成長もあり得ません。
さらに、あろうことか、安倍晋三法人税の減税や、所得税累進課税の緩和など、担税力の存在するところの課税を縮小しようとしています。これでは、黒字企業およびその株主である富裕層がますます有利になり、赤字企業や労働者がますます不利になってしまいます。

 歴代政府は財政均衡主義から社会保障の再構築を大義名分に、税と社会保障の一体改革などという訳の分からない理屈によって消費税の増税を正当化し、市場から貨幣をやみくもに回収する愚かな行為を繰り返しています。

 そもそも、税金によって政府支出が可能となっているというイメージは刷り込まれたフィクションにすぎません。
社会保障費の財源は、政府のあらゆる強制力、とりわけ、景気循環に対応した貨幣増刷によって調達すべきものであり、これに対して、税制はインフレ対策の一部にしかすぎず、それ以上のものでも以下のものでもありません。

 財政危機はもとより存在せず、財政均衡や財政規律の必要もありません。
ましてや、税目を特定して消費税と社会保障を関連付けるのは盗賊の言いがかりとしか言いようがありません。

 こうした、政治家の基本部分での経済的な認識の誤りは、所得再分配の基盤である税制、金融制度、社会保障制度を破壊する要因になっています。認識の誤りとは、信念が無いと言う意味もありますが、やはり、この場合は、経済学の教養が無いと言うべきものでしょう。

 野党の国会議員も経済学の教養が無いという点では与党を上回っており、財政均衡による反論に恐怖しているのか、自らが財政均衡論者なのか、頭の悪さは計り知れないものがありますが、国会や予算委員会を見ていると、所得再分配政策に関する質問は明らかに腰が引けています。頭がパーなので、財政均衡論や財政規律論からの反論に恐怖しているのでしょう。

 確かに、国会議員の中にも、公共投資などによって有効需要の創出を主張する人たちは少数ながら居て、少しは正しいことを言っていると思います。財政政策や金融政策は生命を維持するためのカンフル剤にはなるので重要です。

 しかし、どうも、その人たちもまた、財政政策や金融政策という名の自動車の運転の仕方が悪いとばかり言っているのであり、財務省に仕込まれた与党の大臣たちからプライマリーバランスや財政規律の話を持ちだれるとたちまち撃破されてしまいます。野党議員も何もわかっていないのです。頭がパーなのです。

 こんなことで論破されてしまうくらいですから、それより難しい問題には手が出ません。
つまり、歴代政府が財政均衡論という間違いの下に、所得再分配政策の基礎である税制、労働制度、資産制度、金融制度、社会保障制度という自動車の部品を破壊して来たことを、誰一人として追求しようとしません。経済学の教養がないので追求しようにも出来ないのです。

 基本部分を理解出来ず、あれもこれも壊わして回った結果、現在の日本があるのです。
この状態で、財政政策も金融政策もへったくれもあったものではありません。
いまさら、ひとつやふたつの金融政策や財政政策が重要なのではありません。
これまで壊され続けて来た、税制、労働制度、資産制度、金融制度、社会保障制度という所得再分配の基礎が破壊されてきたという事実が重要なのです。戦場はそこにあります。

 


(引用終了)
(私のコメント)
このブログは非常に面白く勉強になるのだが、なんせ長い。
要約しようと思うのだが、中身が濃いので難しいし却ってわからなくなる。
それでは意味が無いのでそのままにしました。
ここに書かれていることは全く正しい。
ケインズの考えは資本主義が産業革命などで発展したイギリスで提案されたものだ。
だから、資本主義がどういう長所短所があるか、よく分かっていて、その上で対策を考えている。
ディケンズはイギリスの代表的国民作家でフランス革命を描いた「二都物語」、「大いなる遺産」「クリスマスキャロル」などの作品がある。
この人の作品に出てくる下層階級の労働者はとても悲惨な状態で、貧富の差が大きい。
脱線するが、この人の小説は非常に面白い。
しかし可哀想な登場人物がこれでもか、といじめられたりするので私はあまり好きでない。
勿論大衆小説的に勧善懲悪で終わるので、溜飲は下がる仕掛けにはなっているが、それでも何となく暗い。
それが英国社会の現実だったのかもしれない。
だが、一方大体1800年代前半、19世紀前半のイギリスはヴィクトリア女王の時代(1837年即位)で英国が繁栄を極めた時代だ。
1800年代前半はナポレオンのフランスと戦って勝ち、その後の発展のきっかけとなっている。
そう言う大英帝国黄金期の暗黒面がディケンズを読むと分かる。
そうした歴史的背景からくる社会的矛盾の中で、何とかより良い社会を目指そうと宗教者、教会、社会思想家などが当時も活躍した。
ジョン・メイナード・ケインズ(1833-1946)はそう言う歴史的蓄積の上に立って経済学の一派を形成した。
1935年に発表した「雇用・利子および貨幣の一般理論」が有名で、上記の記事もそれが元になっている。
歴史的な背景を踏まえるといろいろな側面が現れて面白い。


(私のコメント終)