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本の再読要約紹介
斎藤孝著「上機嫌の作法」

人生をうまく生きて行くには色々な技術やノウハウが有る。
この上機嫌の勧めは別の角度からその技術を解説していて非常に有効だ。
こういうものは学校では教えてくれない。
昔は「教育勅語」など修身科目があって人生の技術を教えたが今はない。
日教組が自由大切といって、実は教育放棄の無責任なのだが、子供を放り出してしまったからだ。
また、重要な徳目は暗唱させ、何時も思い出せるようにした。
この勉強法は身につく学問なので方法としては良いやり方なのだ。
英語なども覚えるだけではダメで何時も使っていないといけない。
そしてまずやり方を覚えたら、毎日思い出して少しで良いから実行する。
そうやってなるべく体や心に良いことは習慣化することが大切だ。
習慣化すると嫌なことでも苦にならずに身についてゆく。

そこで、前回の斉藤孝著「上機嫌の作法」という本から重要と思われる所を抽出した。
これを使って毎日努力する。
努力と言っても習慣化すれば苦にならない。
そうして上機嫌力を鍛えよう。きっと幸運がやってくる。
笑う門には福来たる、これは真実だ。
昔から気さくな明るい人は皆に好かれた。

商人の家はこういうノウハウや伝統を持っているが、
当家は武家郷士)だからそういうDNAがない。
それでも落語が好きだったり、芝居や本が好きだったりする。
これは上機嫌になる方法をそこから得ていた、ということだろう。

話は飛ぶが、昔は小児麻痺の人は多かったが今はあまりいない。
私の友人にも居たが、その人は手足が不自由で歩くこともうまく出来なかった。
しかし、妙に明るく人懐っこい奴だった。
今思うと恐らく苦しみ抜いた後に独自の境地を切り開いたのだろう。
それが上機嫌の技術だったのかもしれない。
性格だと思っていたが違ったようだ。
私なんか恵まれすぎて上機嫌の技術など思い浮かばなかった。
しかし、人生にはこういう技的なものはとても大切だ。

上機嫌の練習は宗教の信仰と同じか、又はそれにつながるものだ、と言えるだろう。
禅宗の教えと修行にも重なるところがある。
キリスト教の愛の教えや浄土真宗の他力本願にも通じているのではないか。
キリスト教の人、特にアメリカ人には妙に明るい人がいる。
上機嫌の訓練は宗教的な修行とも通じているように思える。

・覚えるために標語的に要約

「上機嫌は練習で身につける技術、技」
「上機嫌力を持つと一生の宝」
「上機嫌を習慣化しよう」
「上機嫌は人に好かれる、幸運がやってくる」
「良いことがあっても、悪いことがあっても上機嫌」

「あんたも私もOKだ上機嫌」「相手が怒ろうが泣こうが上機嫌」
「認められなくても上機嫌」
「馬鹿にされても上機嫌」

「心を整理して上機嫌」
「吹っ切り上手で上機嫌」
「自己肯定、自己客観視、車の両輪修行で身につく上機嫌」
「自己肯定、自己客観視、両方できれば上機嫌」
「負け犬だ、にもかかわらず上機嫌」
「負け犬だ、それがどうした上機嫌」
「開き直って上機嫌」
「笑ってしまえ、上機嫌」

「笑い飛ばして吹っ切って次に出発上機嫌」

「何言ってやんでー、江戸っ子でい上機嫌」
「江戸っ子はさつきの鯉の吹き流し、腹は空っぽ上機嫌」

「にもかかわらず上機嫌」
「この場はあえて上機嫌」
「だからどうした上機嫌」
「だからこそ上機嫌」
「それでも練習上機嫌」
「ここは修行のチャンスだ上機嫌」
「最悪の時こそ訓練上機嫌」

「体から入れ上機嫌」
「体を温めて上機嫌」
「臍下丹田呼吸法無心に帰り上機嫌」
「足腰鍛えて上機嫌」
「大声出して上機嫌」
「毎朝起きたら笑い顔の練習しよう、口を左右に引っ張る、横隔膜をハッハッと動かす」

「知性教養向上させて上機嫌」
「頭良くなる上機嫌」「臨機応変、クルクル動く上機嫌」
「頭のいい人上機嫌」「出来る人は上機嫌」
「毎日続ける上機嫌」「朝晩唱える上機嫌」

「体の内側から湧き上がるようなイキイキとした上機嫌になろう」
「心をコントロールして上機嫌」
「喧嘩するなら上機嫌でやろう」
「道理に従い、お天道さまに恥じない行いをすれば上機嫌でいられる」
「強きをくじき、弱きをたすけて上機嫌」
「飄々としてものを背負わず上機嫌」

「不機嫌は相手に気遣わせて気持ちがいいが何も産まない。」
「不機嫌はそれを引っ剥がせ、さっさと離れて上機嫌」
「人間は普通の状態は不機嫌だ、子供のときは不機嫌を道具にしたから不機嫌が良いと思っている」
「子供と大人の違いは上機嫌力」